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大学院生のメモ置き場。ふぇみ的な書き散らしなど。

私の身体、私が決める。これは人権だ。

 

なんだかとってもここに書くのはお久しぶり。

 

こんにちは。

昨日、生まれて初めて路上でマイクを持ちました。ラップバトルに参加したのではなく、来る参院選福島みずほさんの応援市民スピーカーをひょんなことからすることになったのです。

ということで、ドキドキしながら原稿を作り、マイクを持ちました。

 

めちゃくちゃ表現の自由を感じた.....!

 

表現の自由はとても大切な人権で、簡単に侵害してはならない、経済的自由権よりも高いレベルの保護を受けるとして「二重の基準論」なんていうのもあったりするくらいなんですが、なぜそんなに保護しなければならないのか?は諸説あります。

自己実現と自己統治、なんて学部一年では覚えたりするのですが、その自己統治の方は、要するに民主主義に資するからということです。

もし国会が経済的自由を侵害する法律を作ったら、市民は表現の自由を行使して「あの法律は間違っている!」と声を挙げることで法律を改正できる。しかし、表現の自由そのものが規制されてしまうと民主主義が成り立たなくなる。そういう論理です。

なので、政治的言論というのは表現の自由の一丁目一番地という感じで、それを駅前の広場?でやるなんて!とっても表現の自由だわ!

駅って不特定多数の人が通るじゃないですか。私の声を聴きたくない人も聞かざるを得ない。でも、民主主義を形成するにあたっては、たくさん人の集まる場所で声を挙げて議論をしていくことが大事。だから、公園とか広場とかはパブリックフォーラムと呼ばれていて、「ここは誰々が管理権を持っている場所だから出ていけ」というのではなく、表現の自由のための空間として保護しましょうって話があるのです。そんなパブリックフォーラム論の源泉となったアメリカの判例では、「記憶にないほど昔から~」というフレーズで、公的な空間のことを形容するのですが、まさにこうやって駅や広場でマイクを持ち、ミカン箱の上で声を出してきた。そういう古の記憶?の中で表現の自由ってば行使されてきたのかしら!そして迫害されそうになったら戦って、獲得してきたんだわ!そんな歴史の延長線上にいるのね!!と非常にナイーブな歴史観で一日経った今はちょっと笑っちゃうんですが、感動していたわけです。帰りの電車もいつもは座ると寝ちゃうのですが、興奮で目がガン開いていました。

そんなこんなで、スピーチをしてまいりました。

 

そのスピーチ原稿の一部を、急遽公開します。応援演説なので必然的に党派性が強いですが、悪しからず。

「私の身体、私が決める」ということについてです。

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見ての通り、私は小さな女です。

見てわかりませんが、私はレズビアンです。

私は、その二つの点についてマイノリティです。そして、福島みずほさんを党首とする社民党がマイノリティの声を聴いてくれると思って、いまみずほさんを応援するスピーチをしています。

 

ある日テレビを見ていて、母が「昔は堕胎罪なんてあったのね」と言いました。私は「お母さん、今もあるよ」と。

今も、堕胎罪はあります。自分の身体を自分で決めることが犯罪です。中絶は母体保護法によって「許可」されているにすぎません。

私の身体は私が決める。これはウーマンリブの女性たちのスローガンです。

これは人権です。基本的な権利です。

ウーマンリブは、1970年代とかの話です。私はこれ、大学の授業で歴史として習いましたが、でも「歴史」だなんて思えませんでした。今の問題です。今もなお、日本では、私の身体のことは私が決めるという基本的な人権が成立していません。

昨年、経口中絶薬の承認申請がなされました。これについて先日の国会で福島みずほさんが質問をしました。薬を飲むのに、配偶者の同意が必要か、と。

これに政府の側は、必要ですと言いました。

私の身体は私が決める、なのに配偶者の同意が必要なんておかしいです。

 

でも、法律にそう書いてあるのだからお役人だってそう答えるしかないのかもしれません。今の堕胎罪を適用しないようにする母体保護法は、配偶者の同意を必要としています。

薬を用いても堕胎罪の構成要件に該当しますから、そりゃあお役人さんはそう答えるしかないですよね。法律に従ってお仕事をするのが、行政府です。行政が法律に従わないことは大問題ですから。

 

でも、法律を作り、変えるのが国会です。

選挙とは、法律を作り、変える国会に送り出す議員を決める機会です。

社民党の重点政策では、堕胎罪・母体保護法を見直し、女性の包括的健康に関する法律を作成するとあります。ぜひ実行していただきたい!

私の身体は私が決める。産む・産まないは私が決める。

 

少子化対策」として「出産育児一時金の引き上げ」が議論に上ります。

もちろん、出産にかかる費用は大きい額ですから公的に負担していただきたい。

しかし、「少子化対策」ってなんですか。私は、私たちは、国のために産むんじゃない。私と、私の近い人たちがそうしたいと決めたからだ。

だとすれば、産まないこともまた私の決定として尊重してほしい。

社民党の政策は、妊娠出産そして中絶も、保険適用するとあります。

 

一人ひとりの権利が尊重された先に、一人ひとりの「私が決める」の尊重の先に、「産める社会、産みたい社会」があるのではないでしょうか。

私は、権利論のない「少子化対策」を心配しています。

「私の身体、私が決める」そういう基本的な人権を理解し、産む/産まないを支持する社民党を、福島みずほさんを支持します。

 

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何人かの友人も来てくれましたが、それに加えて通りすがりの方が足を止めてくださいました。「私の身体、私が決める」とか、「私の決定を保険適用にしろ。産む産まないも私の決定だ」とかのあたりで止まってくれる人が増えて、私は嬉しかったです。

こうやって誰かの言葉が誰かの耳に届く。すげ~表現の自由っぽ~と思いました。ナイーブですが。

とにかく興奮していたのです。とにかく感動していたのです。私の声に、力があるように思えて。

 

 

夜11時を過ぎるまでは、本当に気分がよかった。すっきりしていた。

 

 

さて、米国では昨晩、Roe v. Wadeという妊娠を終了するか否かを決定する権利は基本的な権利であると認めた(その後だいぶ修正されたけど、その核心部分は先例としての価値を持ち続けているとされてきた)判決が覆りました。

5月の頭にその判決の草稿が流出するという未曽有の事態が発生し、通常のスケジュールで判決が出るのか...本当にあの通りの判決になるのかと言われてきましたが、予想通りの6月末に、ほとんどあの流出原稿に似た形での判決が下されました。

アカデミアでは、昨年の秋から今年の6月には覆る線が濃厚だろうと言われ、リークがあったことでその線はほぼ確定となり、予測していたこととはいえ、んんんんぎゃああああああああああああすごいショックだったああああああ(号泣)

 

昨日の夜からずっといろんなテレビ見てますが、ペロシがもう震えながらコメントしてるのが、ダイレクトに怒りが伝わってきてもうなんかしんど....みたいなさぁ。

 

ということで、なんだか急にこのブログって場所があったなぁと思いだして書き始めたのです。たいした情報はないですが。何か訳すなどできたらやりたいと思っていますが....。

 

言いたいことは、

私の身体、私が決める。これは人権だ。

 

そういうことです。

 

そして、冒頭のスピーチ原稿にあったように、日本だって対岸の火事ではないということです。人の身体を道具として使おうとすること、活躍や生産を望むこと、おかしいです。私は、私の人生を生きるために生まれてきた。

 

 

たとえ、どっかの国の最高裁が、そんな判断は間違っていたんだ、と言ったとしても。

 

 

 

冒頭で、「二重の基準」やら「パブリックフォーラム」やら言っていたの、アメリカの議論が日本に輸入されたものですし。Roe v. Wadeも国内外で理論的な弱さを指摘されてきましたが、それでもたくさんの、無数の研究が紹介し、分析してきました。1973年というタイミングで、「権利」だと認めたことは、画期的なことだった。

昨晩のニュースでも言われていましたが、米国最高裁の権威の失墜の始まりです。まぁ、あの国の最高裁の権威は何回も失墜しては復活しての繰り返しなのですが。失墜のターンに入ったでしょう。

だからちょっと、なんかね、ほんとう、スピーチのあとの興奮を返してくれや....みたいな気持ちもちょっとあります。

ま、そんなことはどうでもよい。

 

とにかく何があっても口を酸っぱくして

「私の身体、私が決める。これは権利だ。」と言っていく必要があると思います。