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大学院生のメモ置き場。ふぇみ的な書き散らしなど。

継ぐ

 

私のお気に入りの日本国憲法の条文として、97条があります。

97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

 

格式の高い、素敵な文章だと思います。

特に「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって」のところがお気に入りです。フランス人権宣言以来の立憲主義の伝統に属する憲法という意味でもそうだろうと思いますし、フェミニズムにコミットしている人間としては、オランプドグージュの女権宣言に始まり(その前からかもしれないけど)第一波フェミニズム、第二波....との幾多の戦いの末に、そして歴史上に名前を残さなかった無数の人たちの汗と涙の後に自由と権利があることを実感しているので、この部分でそうした戦いに思いを馳せ、グッとくるのです。

 

自分の研究対象にそんなに愛着を抱いてどうするんだ、とも思います。それが、分析の目を濁らせることにならないのか。

 

そんな中、きっかけがあり3冊の本を読みました。『戦後憲法学の群像』『法律家・法学者たちの八月十五日』『日本国憲法の継承と発展』です。

 

 

 

 

今回はその読書感想文的な感じでブログを書きます。

 

というのも、結論からいうと、これらの読書をしたことで自己定義に変化が生じたと感じたからです。これまで自分のことをフェミニストだとは考えてきたけれど、憲法を勉強する者あるいは「護憲派」のような憲法になぞらえたなんらかの自己定義を好んでしてこなかったのです。(何を勉強しているの?と聞かれたらそれに答えますが、あくまでもそれは住所を聞かれたら答えるような感覚でした。)

ところが、これらの本を読んで、憲法に携わってきた人間たちの集団の一番若い世代に自分がいるのだということを強烈に意識するようになる、という心情の変化が生じました。

 

憲法に関する学会はいくつかあるのですが、そのなかでも「全国憲法研究会」というものの歴史に簡単に言及すれば、その設立の契機は1964年に憲法調査会最終報告書が出されて明文改憲の機運が高まっていたことです。全国憲法研究会は、1965年に小林直樹・長谷川長安芦部信喜らが発起人となって作られました。

つまり、「学会」の設立契機そのものが、憲法改正という政治的出来事に呼応しています。

 

さらにそもそも論として振り返ると、「憲法問題研究会」というものがあってだな...。

憲法問題研究会」は、1956年に岸内閣によって設立された「憲法調査会」が朝鮮戦争を契機として改憲をもくろんだものであり、それに対抗する形で宮沢俊義矢内原忠雄湯川秀樹我妻栄らが発起人となってスタートした。新聞でも、憲法調査会とは対抗的な護憲のための団体と報じたようです。

んで、その「憲法問題研究会」が若手による後継団体ができるといいね、という方向性でまとまり、さらに当時の政治状況もあって発足したのが「全国憲法研究会」ということです。

概観しただけで、「学会」が政治的な文脈の中で形成されていくことがありありと伝わります。

 

何より全国憲法研究会規約を見てみると3条は以下です。

第3条 本会は、憲法を研究する専⾨家の集団であって、平和・⺠主・⼈権を基本原理とする⽇本国憲法を護る⽴場に⽴って、学問的研究を⾏い、あわせて会員相互の協⼒を促進することを⽬的とする。 

 

日本国憲法を護る立場に立って、なんですね。

 

これを外から見ると、憲法学というのは「護教の学」なのねという印象を受けるかもしれません。しかし、むしろそうなってしまう可能性を自覚し、学問として突き放して憲法学を行いつつ、正面から述べることは稀にしても、その時代の政治の空気を睨む、という営みをしてきた集団と言えるのではないかと思いました。

『戦後憲法学の群像』では、戦後第一世代の「護教の学」を批判し、「科学」を追求する戦後第二・三世代が描写されています。

また、有名な樋口陽一先生の「批判的峻別論」もまた科学を追求しながら、同時にその時代の政治状況とも睨み合わなければならない憲法研究者として考え抜いた一つの「思想的選択」であり、その背中のリアリティは学部生のころよりも今になって私にのしかかってきます。多分きっとこれから、年齢を重ねたり何者かになったりすることができたなら、またその重みは変わってくるのだとも予感しています。

 

今月は、ひょんなことから政治的な活動に関わり、自分はいったいどんな立場で何を語るのか、を考えざるを得ない日が多かったです。そんななかで、先達たちがどのように学問し、どのように政治と格闘したのかを垣間見るのは、自己を定義しなおし、今後の道標となる読書でした。

 

でね、選挙も終わり、「民主主義への攻撃」と報道されるが実際には必ずしもそうではない事件も起こり、いよいよ「憲法改正」だと言われているわけです、2022年サマー。

こうした過去の「憲法学」共同体の動きを概観したところで、私自身もまた「今」との格闘を強く求められていると。

もっとも、ピヨピヨなので何ができるのか、何を研究しどう発表するのか、どうリアルな政治と関わるのか、まだまだ考え途中です。

 

そこで、さらに歴史をさかのぼってみます。1945年8月15日を振り返るエッセイの中で宮沢俊義はこう記しています。

しかし、それにしても、高いねだんだった。数百万という人間の命を、徴集令状一本で集めて、これを片っぱしから気前よく消費したものである。

 

宮沢俊義は、1945年にはすでに憲法学者であったので、終戦とともに政府の憲法問題調査会(松本委員会)に関与することになる。その松本委員会が作った草案は、天皇を中心とする「国体」を維持することが前提となっておりそれが毎日新聞にスクープされると、これはいかんとGHQがやってきてマッカーサー草案を提示し、これが日本国憲法の草案となっていったことは周知のとおり。

当時の日本人にとって「国体」というのは非常に大きいもので、マッカーサー草案に先立って各政党が発表した憲法草案でも「国体」を否定しているのは共産党だけだった。

そして宮沢は正直に、「この時点において、『国体』の重圧をおさえつけることが現実に可能であったのは、それがGHQの圧力によって推進されたからであることは、たしかである。」と述べている。あの時にGHQがいなければ、こうはならなかった、と。

 

これがいわゆる「押し付け憲法論」の根拠となる歴史の一端であることに間違いはないでしょう。でも、このエッセイにおいて8月15日に「命だけは助かった」と思った宮沢が、そして自身が憲法を学び外国の立憲主義を知りながら自ら草案を生み出せなかった宮沢が、正直に「日本国憲法が保障する『自由のもたらす恵沢』を望ましく思う人は、結局は、それをもたらした戦争と降伏に感謝することになるだろう。」と述べていることを重く受け止めたいのです。

 

元首相が「みっともない」と呼ぶ憲法だけどさ、97条みたいにいいこと言ってるんだよな。そしてそれは、「高いねだん」だった。

 

 

 

 

 

自由と権利を保持し、拡大するための努力を続けていくためには、歴史を知り、それらを批判しつつ、繋いでいく必要があります。

最近は統一教会関係で、日本の宗教保守とジェンダーの関係が注目されているなかで、やはり若い世代がきちんとジェンダーバックラッシュを知ることが必ずしも十分じゃなかったのではないか、とかも感じています。

フェミニストとして、そして憲法を学ぶ者として、過去の格闘を知り、それを継承しつつ、より公正で平等な社会にむけて努力することが求められているのだなぁ...と月並みな感想を抱いたのでした。