watasi-no-namae

大学院生のメモ置き場。ふぇみ的な書き散らしなど。

法と道徳、そして法

 

今日は最近気になったニュースの話。

今週は、アメリカで中絶関係の動きが忙しくて(まぁここんとこずっとですが)。例えばこんな感じ....。

How Abortion Rights Supporters Won in Kansas - The New York Times

Indiana Passes Near-Total Abortion Ban Post-Roe - The New York Times

 

そっちも触れたいところだけど、もうちょっとまとまってからにしたいので、今回はこちらのカナダのニュース。

www.theglobeandmail.com

 

カナダの最高裁判所が、コンドームをしてほしいというパートナーの要求を無視して行った性行為は、性暴力であると判断したというニュース。

 

コンドームありのセックスと、コンドームなしのセックスは全く異なるものであるとの司法判断を示しました。

 

 

日本でも、コンドームを行為の最中で相手に伝えずにこっそり外す行為は「ステルシング」であり、性暴力であるということが徐々に知られるようになってきています。

www3.nhk.or.jp

また、アメリカのカリフォルニア州では「ステルシング」が違法になったことが、海外ニュースの翻訳として日本語でも読めます。

コンドームを同意なく外す「ステルシング」、米カリフォルニア州が違法に - BBCニュース

ヨーロッパ方面でもステルシングについての判例はいくつか蓄積しているようです。

 

今回の判断は、つけるふりをしたとか、途中で外してだましたとかではなく、コンドームありのセックスに同意したのにそうではないセックスをしたらそれはSexual Assultである、という判断でいわゆる「ステルシング」の典型的な形と違うものです。

 

冒頭の記事の中で

“It’s certainly significant for women in this country – it’s also internationally significant,” said Lise Gotell, a professor of women’s and gender studies at the University of Alberta. “In no other jurisdiction now is there such clarity in the law that when you consent to sex with a condom, you are not consenting to sex without. … This is an incredibly important decision.”

「コンドームありのセックスに同意しているときには、コンドームなしのセックスには同意していないということを法において明確にした法域は現在のところ他にありません。」とLise Gotell氏は述べています。

 

本件が最高裁に来るに至った背景には、ブリティッシュコロンビア州の裁判所が、パートナーの同意なくコンドームに穴をあけた行為を、当該性行為には同意していたが詐欺によって得られた同意であるとして有罪を支持した先例の基準を本件に適用しなかったことがあります。

今回の事例は、当該性行為に同意していたし、詐欺(コンドームをしているように見せかけて外す)もない、と判断を下級審が下したことを不服として、最高裁に持ち込まれた事例です。

 

最高裁の判断では、同意なくコンドームを外すことは、既存の詐欺にあたるのではなく、刑法上の同意の評価にあたるとしています。

ごまかしや欺きの行為の有無にかかわらず、同意なくコンドームを外すことはSexual Assultに当たるとしたわけです。

 

 

 

この判決を見て、道徳が法を拡張したのかな、と思いました。

先に示したカリフォルニア州で、ステルシングを違法とする法律が通ったときも、提出した議員であるガルシア議員は「モラルだけでなく法律に反することを、はっきりさせたかった」と述べています。

 

 

私は、日ごろ、「性的同意」の考え方を広める活動をしていて、同意の6原則として以下を掲げています。

①対等な関係であること

②意識がはっきりしていること

③強制がないこと

④十分な情報が与えられていること

⑤行動を起こす側が積極的なYesを聞く責任があること

⑥一回一回確認すること

※仲間たちで作ったハンドブックは以下から確認できます。

What's Consent? on Strikingly

 

今回の事件は、④十分な情報が与えられていること(informed)に関係します。

 

こうした「性的同意」は、一部の国では法制化していますが、少なくとも日本ではまだ道徳の領域にあたります。刑法上の犯罪として扱われるのは、同意がないうえに暴行脅迫要件を満たすだとかする必要があります。

日本でも、勝手にコンドームを外すことは「道徳的に問題」と考える人が(きっと)多いはずで(そうであってくれ)、ただそれは犯罪ではない。

犯罪として裁くということは、国家権力(警察、検察)が総力を挙げて、たった一個人を調べるという大きな個人の自由への介入ですから、何でもかんでも法律の出番です、という訳にはいかないというところがあります。

世の中には、法律で裁かれなくても、人として許されないことは山ほどあります。法律は最終手段だと私は思ってます。だからこそ、頼りたいときにはもうだいぶ追い詰められているから、頼りたいし、そこで頼れないと困ったことになる。

 

一方で、例えば西洋では同性間の性行為を犯罪としていた歴史もあったわけで、法と道徳の区別というのは、もし仮に同性間の性行為が道徳的に許されないとしてもそれは法の出番なのか、という形で、むしろ個人のプライバシーの問題ではないかと説得してそうした法を廃止してきました。(念のため言っておくと同性間の性行為の何が道徳的に問題なのか意味がわからないと思っている人間がこの文章は書いています。)

また、日本で最初の法令違憲となったのは、尊属殺重罰規定で、尊属を殺した場合はそうではない人を殺したときよりも刑罰が重くなるという規定が、日本国憲法の下でもしばらくありました。

仮に、親を殺すことのほうが、そうではない人を殺すことよりも道徳的に許されないとして、それは法でやることなのか。

 

 

 

法哲学の難問に入り込もうと思えばまぁそうしたらいいんでしょうけど、ここでやりたいのはそんなことではなくて、どう自分が考えるかということ。

今学期、潜っていた授業では、憲法の先生が「憲法の授業は、究極的にはあなたがたの道徳的判断と切り離すことができない。」と言って、法的な考え方を教えつつ、繰り返し繰り返し「これはわいせつだと思うか?」とか「中絶は権利か?」とかを大教室で学生に聞いていました。表現の自由や、自己決定権を論じることはできるし、それを構成する判例たちを知ることはできても、そこにどう評価を下すかは自分に戻ってくる。

 

 

さて、ここでカナダの記事に戻ると、記事の序盤に、カナダ国内でコンドームを使わない性行為についての議論が高まってきており(調査も行われて調査に協力した大学生の18%が同意なしにコンドームを外される性行為を経験していると回答したと)「今回の判断は法が議論に追い付いた」と評価しています。

“There’s a growing public conversation around non-consensual condom refusal and condom removal, and what we’ve seen today is the law catching up to that conversation,” said Kate Feeney, director of litigation at West Coast Legal Education and Action Fund, which was an intervenor in the case.

 

こうしたことから考えるに、議論あるのみ、と思いました。

「性的同意」なにそれ?というリアクションだったり、「契約書をかくの?」と言われたり、性に保守的な人たちがやってるお堅い活動なのかしらねという反応がある一方で、ビッチに違いないというリアクションもあったり....。とまぁ様々な反応が返ってくるわけで。もちろんその中には、「『暴力』だって認識できてモヤモヤしてたものが少し変わった」という反応もあります。

結局は、こういう議論の積み重ねが、やがて法になる。あるいは、法であったものをやめさせていく。そこに理論ももちろん必要なので、理論屋さんのお仕事はあるわけだけれど、最後のところの法と道徳の区別をどちらかにシフトさせるものは、草の根の議論なのよねと至極王道な結論に至りましたとさ。

 

ちなみに、今週のアメリカ、カンザス州で、中絶の権利を記載した州憲法の修正が実現しなかった件では、やはり草の根での運動が功を奏したようです。

どこでも王道は王道なのだと思います。