watasi-no-namae

大学院生のメモ置き場。ふぇみ的な書き散らしなど。

Jの論理から出てくれよ、頼むから

 

多分、私は、そのへんの人よりは法律に詳しい。法律っていうか、法に詳しい。今、LawとLawsの違いを意識した時点で、ちょっと詳しいと思う。

 

多分、私は、そのへんの人よりは性被害に詳しい。これはそんなに自信がないけれど、でも年間で10コマ以上は性暴力に関するワークショップをやっている。

 

多分、私は、そのへんの人よりはジャニーズに詳しい。ファンだっていうのはもちろんだけど、たとえばジャニーズ事務所の創業年を即答できる。1962年。

 

 

私は、怒っている。

 

はっきり言って、最近はそんなに「ジャニオタ」としての自覚がない。アニメにハマったりしている。そんな私にもまだまだ体内にこんなエネルギーがあったんですね?っていうくらい怒っている。

 

いい加減にしろ、ジャニーズ事務所

ふざけるな、ジャニーズ事務所

 

 

まず、大前提として、性被害については被害者の声が最大限聞かれるべきだと思う。ようやく、声が聴かれるときが来たのだから。

 

 

 

 

さて、ジャニオタ.........だった、と過去形にするにはあまりにも人格にジャニタレとの思い出が沁み込みまくっている人間の視点から怒る。

 

タレントを社長にするな、タレントを表に出してコメントさせるな。

 

大前提として、現時点で被害を訴えている人以外が、性被害についてどうこうというのは我々オタクの知るところではないし、それは本人の判断に任せるところなので、現在の所属タレントの被害云々について言うつもりは全くない。

 

詳しい契約の形態は知らないけれど、ジャニーズ事務所は各タレントとマネジメントの契約を結んでいるに過ぎず、各タレントは個人事業主扱いのはずだ。

ジャニーズ事務所は、タレントをマネジメントするのが仕事であり、タレントは会社の「社員」ではなく、あくまでも自分が芸能活動をするための事務等を請け負ってもらっているに過ぎない。

 

本件は、ジャニーズ事務所という会社の元社長による性加害の問題であり、責任はジャニーズ事務所にある。

そして、そのジャニーズ事務所が適切な対処を取っていないために、ジャニーズ事務所所属タレントがCM契約に影響が出ているのであれば、タレントの価値をマネジメントするはずの会社が下げていることになる。請け負っている仕事を、十分にできていないのは、ジャニーズ事務所であって、そこと契約しているタレントではない。

 

まず、オタクとしてはそこに怒っている。

お前らが、ちゃんと仕事して責任を果たさないせいで、マネジメントを委託しているタレントの側の仕事に影響が出てるじゃねーか、ふざけんな。

モンペオタクなので、自担が可愛い。自担の仕事の遂行を妨げているのは、説明責任や体制の刷新を図らない事務所の方だ。

 

 

にもかかわらず、7日の会見に出てきたのは、「新体制」と称したヒガシとイノッチ、そして元社長のジュリーだった。

 

私は、少年隊のファンでもV6のファンでもないが、あえて「ヒガシ」と「イノッチ」と呼ばせて欲しい。だって、みんなそう思ったはず。

 

これで「舞台」は出来上がった。

 

さぁ、社訓を唱えよう。Show must go onだ。SMGO!

 

 

ヒガシとイノッチが、「役員」という立場を引き受けてしまった以上、彼らは経営に関する責任から逃れることはできない。だから、ヒガシとイノッチのことはここで一回置いておきたいが、おそらくヒガシが引き受けたのは「長男」だからだろう。

ジャニーズ事務所のファンクラブは「ジャニーズファミリークラブ」という若干キモイ名前で統一されているが、ジャニーズはまさに「家族」の比喩で示され、ジャニー喜多川が亡くなったときも所属タレントが大勢出席した葬儀は「家族葬」と呼ばれた。

この感覚は、ある程度ジャニオタをやってるとなんとなくわかる。あの組織は、契約とか業務委託とか、そういう論理ではなく、「家族」の論理で動いているし、その周辺の人も「義理と人情」で動いている(Cf.山下達郎)なんだろう。

この「Jの論理」からしたら、ここで社長を引き受けられるのはヒガシしかいない。

すごいわかる。感覚でわかる。オタク肌感覚。

 

そして「Jの論理」の下でヒガシが登場した以上、記者会見は「Jの論理」の中で進められる。「命をかけて」「夢を捨てた僕」というミュージカル用語で語られる意気込みは、ジャニオタ魂に突き刺さる.......泣きそう。頑張って、ヒガシ!!!こんなに「ジャニーズ」が揺らぎそうなときこそ、みんなで一丸となって頑張ろう!!ジャニーズファミリーの力だ!!!オタクも「ファミリークラブ」の一員として応援しよう!!!どんな時でもShow must go on!!!!

 

そして、そうやって「長男」のヒガシが登板した以上、次男以下の振る舞いは確定した。

 

私は、ニュース番組に出たり、ワイドショーのコメンテーターをしたりするタイプのいわゆる「インテリアイドル」とか、MCとかやるタイプの男が趣味だ。

そして、私の人生を根こそぎ変えた男である櫻井くんは、その日のうちにコメントをした。さらに、河合くんもまた、翌日のWSで涙を流しながらコメントした。

オタクの私、泣いた。苦しい。自担の涙、本当に苦しい。

 

彼らは言うのは、大体同じようなことだ。雑にまとめるな、と他のオタクから怒られそうだけど、結局は同じ。「エンターテインメントで返していく。」

また、業務委託契約を結んでいるに過ぎない個人事業主であるにもかかわらず、とても申し訳なさそうにしている。「このようなことはあってはならない」

 

 

これが「Jの論理」だ。

本来ならば「社員」ではないはずのタレントたちが、あたかも「社員」かのように責任の一端を感じさせるかのように話す。「より一層邁進」の決意を語る。

Jはエンタメ集団だから、邁進する方法はエンタメだ。

社歌はCan do Can go!

 

 

 

待って、待て。待って!!!!!!!!!!!!!(大声)

 

あなた方は、責任を負う側ではない。

そうではないにも関わらず、ピントのズレたコメントをすることに何の意味があるのかとすれば、「Jの論理」の舞台を作り上げることに加担するだけだ。

タレントが苦しければ、オタクも苦しい。タレントが泣けば、オタクも泣く。そして生まれる「一億総ざんげ」の無責任謝罪体制。誰が?何に?どうして?なんで経営陣以外のタレントがコメントしてんの??????????はぁ?

 

そりゃあさ............小学校高学年とか、中学生とか、子供の時からずっといるんだから「Jの論理」に染まることはわかる。私は、タレントのファンだから、どれだけ整理できない思いを抱えているだろうと思う。

だから、翔くんの言葉は、翔くんのものでしかないし、河合くんの言葉も河合くんの素直な言葉なのだろうよ。

でも、あなたがたは「アイドル」だから。それが生み出す「劇場的な効果」に無頓着にならないでくれ。

 

と、いうのも酷なくらい、彼らにとっては根幹にかかわる事態だろう。

おそらく、あの事務所の誰も、自らの発言が「Jの論理」に染まりまくってて、世間からズレていることにあんまり気づけていない。

 

だから!!!!!!!!!!

事務所は!!!!!!!!!!!!タレントを!!!!!!!!!前に出すな!!!!!!!!!!!!!

 

タレントに責任はないから前に出すな。

前に出したら、彼らが話せる言葉は「ジャニーズ語」しかないんだから、その効果を考えたら余計に出すな!!!!!!!!!!

 

 

 

いや、ジャニーズ事務所に、もうそういうこと考えられる人材はいないのだと思う。

 

 

だから私は怒っている。

報道に、テレビ局に。

 

 

有働さん、あなたが取材に行くべきは、櫻井翔じゃない。

 

NHKの元同僚だろうが。NHKのディレクター、NHKのスタッフ、関係者。

目撃者はいなかったか、いたらどんな場面で?いつ?そっちだろうが!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

カメラが櫻井翔に向けられるとき、河合郁人に向けられるとき、テレビは「Jの論理」の舞台装置になる。

彼らの言葉が無数のファンに届き、無数のファンが心を動かされ、時に一部は二次加害を含む過激な行動に出る。

 

テレビ局各局が出すべきは、コピペのステートメントじゃない。

あなたがたが、どうやって「Jの論理」に加担してきたか、だ。義理と人情、家族一丸となって、精一杯エンターテインメントを届けます!!!の裏側を話せるのは、あなたがたテレビ局の側でしょう?

それが、コピペみたいなステートメントを出して、「一億総ざんげ」ですか?何が問題で、何に責任を感じ、これから何をするのかを語れや!!!!!!!!

「最悪の犯罪」と断罪して、みんなで反省して、みんなで謝ってる感を出して、それじゃあ結局は、そういう「舞台」を演じたに過ぎない。

 

 

 

「Jの論理」は、すごい力を持っている。

 

私が、これを少しだけ離れたところから見れたのは、元を辿れば櫻井くん、あなたのお陰だよ。

 

あなたが大学って楽しいよ、というから進学したいと思った。あなたがニュースを読むから、私は社会を知りたいと思った。あなたが法律家を演じるから、私は法律を学びたいと思った。

 

好きだよ。

 

そして、感謝している。

「ペンの指す方向」はあなたの座右の銘的なところがあって、慶応義塾の校訓だね。

 

 

義理と人情と愛が、私を「Jの論理」に縛りつける。

しかし、知識と理性は、人を自由にする。翔くん、ありがとう。私に、本とペンをくれて。

 

 

 

 

残りはもう、既に出尽くしている議論だ。

 

なぜ時効のあるうちに言い出せなかったのか?については、性被害の言い出しにくさは言うまでもない。特に、男性間の性被害は、「存在しないもの」として言い出しにくい。ジャニー氏の加害は、「ホモセクハラ疑惑」などとホモフォビックな言葉と共に語られてきた。

性被害は、常に女性が被害者だと考えられ、男性は不可視化されてきた。

 

さらに言えば、2017年まで日本の刑法は、性犯罪(強姦罪)の被害者は女性のみであると規定してきた。

この規定の合憲性が争われた裁判は、1953年のことだが、女性のみが被害者になることは「生理的に」当然のことであるとされたし、そもそも男性が被害者になることなど考えにくいと考えられていた。(最判1953(昭和28)年6月24日刑集7巻6号1366頁。)

男女の「生理的、肉体的等の事実的差異に基づき、且つ実際上強姦が男性により行われることを普通とする事態に鑑み、社会的、道徳的見地から被害者たる『婦女』を特に保護せんがため」のものであり、「一般社会的、道徳的観念上合理的なものであることに多言を要しない」。

 

1953年は、朝鮮戦争が休戦して、ジャニー喜多川が代々木のワシントンハイツに戻ってきた頃だ。被害は、この頃から存在しているとの証言がある。

(※ジャニーズ事務所は、ワシントンハイツの草野球チームから始まった。ジャニーズがJohnny'sなのは、野球の監督であるジャニー氏の名前を冠しているから。)

(※ワシントンハイツと切り離せないとすれば、ジャニー氏の性加害は、エンターテインメントの現場における性被害であることはもちろん、初期においては在日米軍と軍属による性加害という沖縄で繰り返されてきたテーマとも通底するのではないかと思う。)

男性の被害は、見えにくい。

 

 

他にも、私はそこそこ法律に詳しいので、性犯罪規定の変遷や、「法の支配」のなんたるかをイギリスに遡って説明してみたりしてもいいけど、まぁ、それはまたの機会にでも。

 

櫻井くんの演じた特上カバチ!の田村くんの台詞を引用して、法は人々の長い間の知恵の積み重ねできているものだから、それに従え、という議論を見かけた。

 

さて、長い間、法を作り上げてきた男性は、男性が性被害にあうことを、どう考えてきたでしょうか。

最高裁判例は、男性によって書かれ、それを男性の憲法学者は支持してきた。

法は、人が作るもので、確かに正義と知恵が詰まっているけど、それゆえの弊害もまたたくさん含まれている。時に、それが、今の「正義」に反することもある。

「正義」というと、「ふりかざす」ように聞こえるかもしれないが、英語にするとJusticeだ。Justが入って、「公正さ」とか、そういうニュアンスもある。

ジャニーズ事務所の会見で「超法規的」に、と言ったのは、そういうことなのだと思うヨ。

 

 

だからこそ、同じ特上カバチを引用するなら、堀北真紀演じる住吉先生が、田村くんのミスをカバーするセクハラ回が適切だろう。セクハラは、第一にされた人のことを考えて問題に対処しろ、の回。

残念ながら、今年8月のLe Monde誌で櫻井くんは「一貫して、被害者に寄り添ったコメントを出していない」と言われている訳ですが。

 

 

まぁ、こういう議論にあんまり付き合っても仕方ないのだけど。なんとなく、櫻井ファンっぽく返してみたくなったもので。

 

 

 

 

 

この数日間、あまり仕事が手につかなかった。最近ではすっかりアニメオタクなので、全然大丈夫だと思っていたけど、なかなかそういう訳にはいかないみたい。

だったら文章にした方がいくらかマシだろう、と考えて文章にした。

 

人格がジャニオタで、今は少し距離取っていて、性被害と法律に人よりちょっと詳しい私なりに、何か書いてみた。多少はすっきりした。

 

とにかく、「Jの論理」から出てくれ、頼むから。

10000万歩譲って、タレントはもう.....そうやって育ったから仕方ないのだろう。

でも、会社は、会社なのでしっかりしてほしい。

ジャーナリズムも、頑張って欲しい。

 

 

 

法と道徳、そして法

 

今日は最近気になったニュースの話。

今週は、アメリカで中絶関係の動きが忙しくて(まぁここんとこずっとですが)。例えばこんな感じ....。

How Abortion Rights Supporters Won in Kansas - The New York Times

Indiana Passes Near-Total Abortion Ban Post-Roe - The New York Times

 

そっちも触れたいところだけど、もうちょっとまとまってからにしたいので、今回はこちらのカナダのニュース。

www.theglobeandmail.com

 

カナダの最高裁判所が、コンドームをしてほしいというパートナーの要求を無視して行った性行為は、性暴力であると判断したというニュース。

 

コンドームありのセックスと、コンドームなしのセックスは全く異なるものであるとの司法判断を示しました。

 

 

日本でも、コンドームを行為の最中で相手に伝えずにこっそり外す行為は「ステルシング」であり、性暴力であるということが徐々に知られるようになってきています。

www3.nhk.or.jp

また、アメリカのカリフォルニア州では「ステルシング」が違法になったことが、海外ニュースの翻訳として日本語でも読めます。

コンドームを同意なく外す「ステルシング」、米カリフォルニア州が違法に - BBCニュース

ヨーロッパ方面でもステルシングについての判例はいくつか蓄積しているようです。

 

今回の判断は、つけるふりをしたとか、途中で外してだましたとかではなく、コンドームありのセックスに同意したのにそうではないセックスをしたらそれはSexual Assultである、という判断でいわゆる「ステルシング」の典型的な形と違うものです。

 

冒頭の記事の中で

“It’s certainly significant for women in this country – it’s also internationally significant,” said Lise Gotell, a professor of women’s and gender studies at the University of Alberta. “In no other jurisdiction now is there such clarity in the law that when you consent to sex with a condom, you are not consenting to sex without. … This is an incredibly important decision.”

「コンドームありのセックスに同意しているときには、コンドームなしのセックスには同意していないということを法において明確にした法域は現在のところ他にありません。」とLise Gotell氏は述べています。

 

本件が最高裁に来るに至った背景には、ブリティッシュコロンビア州の裁判所が、パートナーの同意なくコンドームに穴をあけた行為を、当該性行為には同意していたが詐欺によって得られた同意であるとして有罪を支持した先例の基準を本件に適用しなかったことがあります。

今回の事例は、当該性行為に同意していたし、詐欺(コンドームをしているように見せかけて外す)もない、と判断を下級審が下したことを不服として、最高裁に持ち込まれた事例です。

 

最高裁の判断では、同意なくコンドームを外すことは、既存の詐欺にあたるのではなく、刑法上の同意の評価にあたるとしています。

ごまかしや欺きの行為の有無にかかわらず、同意なくコンドームを外すことはSexual Assultに当たるとしたわけです。

 

 

 

この判決を見て、道徳が法を拡張したのかな、と思いました。

先に示したカリフォルニア州で、ステルシングを違法とする法律が通ったときも、提出した議員であるガルシア議員は「モラルだけでなく法律に反することを、はっきりさせたかった」と述べています。

 

 

私は、日ごろ、「性的同意」の考え方を広める活動をしていて、同意の6原則として以下を掲げています。

①対等な関係であること

②意識がはっきりしていること

③強制がないこと

④十分な情報が与えられていること

⑤行動を起こす側が積極的なYesを聞く責任があること

⑥一回一回確認すること

※仲間たちで作ったハンドブックは以下から確認できます。

What's Consent? on Strikingly

 

今回の事件は、④十分な情報が与えられていること(informed)に関係します。

 

こうした「性的同意」は、一部の国では法制化していますが、少なくとも日本ではまだ道徳の領域にあたります。刑法上の犯罪として扱われるのは、同意がないうえに暴行脅迫要件を満たすだとかする必要があります。

日本でも、勝手にコンドームを外すことは「道徳的に問題」と考える人が(きっと)多いはずで(そうであってくれ)、ただそれは犯罪ではない。

犯罪として裁くということは、国家権力(警察、検察)が総力を挙げて、たった一個人を調べるという大きな個人の自由への介入ですから、何でもかんでも法律の出番です、という訳にはいかないというところがあります。

世の中には、法律で裁かれなくても、人として許されないことは山ほどあります。法律は最終手段だと私は思ってます。だからこそ、頼りたいときにはもうだいぶ追い詰められているから、頼りたいし、そこで頼れないと困ったことになる。

 

一方で、例えば西洋では同性間の性行為を犯罪としていた歴史もあったわけで、法と道徳の区別というのは、もし仮に同性間の性行為が道徳的に許されないとしてもそれは法の出番なのか、という形で、むしろ個人のプライバシーの問題ではないかと説得してそうした法を廃止してきました。(念のため言っておくと同性間の性行為の何が道徳的に問題なのか意味がわからないと思っている人間がこの文章は書いています。)

また、日本で最初の法令違憲となったのは、尊属殺重罰規定で、尊属を殺した場合はそうではない人を殺したときよりも刑罰が重くなるという規定が、日本国憲法の下でもしばらくありました。

仮に、親を殺すことのほうが、そうではない人を殺すことよりも道徳的に許されないとして、それは法でやることなのか。

 

 

 

法哲学の難問に入り込もうと思えばまぁそうしたらいいんでしょうけど、ここでやりたいのはそんなことではなくて、どう自分が考えるかということ。

今学期、潜っていた授業では、憲法の先生が「憲法の授業は、究極的にはあなたがたの道徳的判断と切り離すことができない。」と言って、法的な考え方を教えつつ、繰り返し繰り返し「これはわいせつだと思うか?」とか「中絶は権利か?」とかを大教室で学生に聞いていました。表現の自由や、自己決定権を論じることはできるし、それを構成する判例たちを知ることはできても、そこにどう評価を下すかは自分に戻ってくる。

 

 

さて、ここでカナダの記事に戻ると、記事の序盤に、カナダ国内でコンドームを使わない性行為についての議論が高まってきており(調査も行われて調査に協力した大学生の18%が同意なしにコンドームを外される性行為を経験していると回答したと)「今回の判断は法が議論に追い付いた」と評価しています。

“There’s a growing public conversation around non-consensual condom refusal and condom removal, and what we’ve seen today is the law catching up to that conversation,” said Kate Feeney, director of litigation at West Coast Legal Education and Action Fund, which was an intervenor in the case.

 

こうしたことから考えるに、議論あるのみ、と思いました。

「性的同意」なにそれ?というリアクションだったり、「契約書をかくの?」と言われたり、性に保守的な人たちがやってるお堅い活動なのかしらねという反応がある一方で、ビッチに違いないというリアクションもあったり....。とまぁ様々な反応が返ってくるわけで。もちろんその中には、「『暴力』だって認識できてモヤモヤしてたものが少し変わった」という反応もあります。

結局は、こういう議論の積み重ねが、やがて法になる。あるいは、法であったものをやめさせていく。そこに理論ももちろん必要なので、理論屋さんのお仕事はあるわけだけれど、最後のところの法と道徳の区別をどちらかにシフトさせるものは、草の根の議論なのよねと至極王道な結論に至りましたとさ。

 

ちなみに、今週のアメリカ、カンザス州で、中絶の権利を記載した州憲法の修正が実現しなかった件では、やはり草の根での運動が功を奏したようです。

どこでも王道は王道なのだと思います。

 

 

 

 

継ぐ

 

私のお気に入りの日本国憲法の条文として、97条があります。

97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

 

格式の高い、素敵な文章だと思います。

特に「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって」のところがお気に入りです。フランス人権宣言以来の立憲主義の伝統に属する憲法という意味でもそうだろうと思いますし、フェミニズムにコミットしている人間としては、オランプドグージュの女権宣言に始まり(その前からかもしれないけど)第一波フェミニズム、第二波....との幾多の戦いの末に、そして歴史上に名前を残さなかった無数の人たちの汗と涙の後に自由と権利があることを実感しているので、この部分でそうした戦いに思いを馳せ、グッとくるのです。

 

自分の研究対象にそんなに愛着を抱いてどうするんだ、とも思います。それが、分析の目を濁らせることにならないのか。

 

そんな中、きっかけがあり3冊の本を読みました。『戦後憲法学の群像』『法律家・法学者たちの八月十五日』『日本国憲法の継承と発展』です。

 

 

 

 

今回はその読書感想文的な感じでブログを書きます。

 

というのも、結論からいうと、これらの読書をしたことで自己定義に変化が生じたと感じたからです。これまで自分のことをフェミニストだとは考えてきたけれど、憲法を勉強する者あるいは「護憲派」のような憲法になぞらえたなんらかの自己定義を好んでしてこなかったのです。(何を勉強しているの?と聞かれたらそれに答えますが、あくまでもそれは住所を聞かれたら答えるような感覚でした。)

ところが、これらの本を読んで、憲法に携わってきた人間たちの集団の一番若い世代に自分がいるのだということを強烈に意識するようになる、という心情の変化が生じました。

 

憲法に関する学会はいくつかあるのですが、そのなかでも「全国憲法研究会」というものの歴史に簡単に言及すれば、その設立の契機は1964年に憲法調査会最終報告書が出されて明文改憲の機運が高まっていたことです。全国憲法研究会は、1965年に小林直樹・長谷川長安芦部信喜らが発起人となって作られました。

つまり、「学会」の設立契機そのものが、憲法改正という政治的出来事に呼応しています。

 

さらにそもそも論として振り返ると、「憲法問題研究会」というものがあってだな...。

憲法問題研究会」は、1956年に岸内閣によって設立された「憲法調査会」が朝鮮戦争を契機として改憲をもくろんだものであり、それに対抗する形で宮沢俊義矢内原忠雄湯川秀樹我妻栄らが発起人となってスタートした。新聞でも、憲法調査会とは対抗的な護憲のための団体と報じたようです。

んで、その「憲法問題研究会」が若手による後継団体ができるといいね、という方向性でまとまり、さらに当時の政治状況もあって発足したのが「全国憲法研究会」ということです。

概観しただけで、「学会」が政治的な文脈の中で形成されていくことがありありと伝わります。

 

何より全国憲法研究会規約を見てみると3条は以下です。

第3条 本会は、憲法を研究する専⾨家の集団であって、平和・⺠主・⼈権を基本原理とする⽇本国憲法を護る⽴場に⽴って、学問的研究を⾏い、あわせて会員相互の協⼒を促進することを⽬的とする。 

 

日本国憲法を護る立場に立って、なんですね。

 

これを外から見ると、憲法学というのは「護教の学」なのねという印象を受けるかもしれません。しかし、むしろそうなってしまう可能性を自覚し、学問として突き放して憲法学を行いつつ、正面から述べることは稀にしても、その時代の政治の空気を睨む、という営みをしてきた集団と言えるのではないかと思いました。

『戦後憲法学の群像』では、戦後第一世代の「護教の学」を批判し、「科学」を追求する戦後第二・三世代が描写されています。

また、有名な樋口陽一先生の「批判的峻別論」もまた科学を追求しながら、同時にその時代の政治状況とも睨み合わなければならない憲法研究者として考え抜いた一つの「思想的選択」であり、その背中のリアリティは学部生のころよりも今になって私にのしかかってきます。多分きっとこれから、年齢を重ねたり何者かになったりすることができたなら、またその重みは変わってくるのだとも予感しています。

 

今月は、ひょんなことから政治的な活動に関わり、自分はいったいどんな立場で何を語るのか、を考えざるを得ない日が多かったです。そんななかで、先達たちがどのように学問し、どのように政治と格闘したのかを垣間見るのは、自己を定義しなおし、今後の道標となる読書でした。

 

でね、選挙も終わり、「民主主義への攻撃」と報道されるが実際には必ずしもそうではない事件も起こり、いよいよ「憲法改正」だと言われているわけです、2022年サマー。

こうした過去の「憲法学」共同体の動きを概観したところで、私自身もまた「今」との格闘を強く求められていると。

もっとも、ピヨピヨなので何ができるのか、何を研究しどう発表するのか、どうリアルな政治と関わるのか、まだまだ考え途中です。

 

そこで、さらに歴史をさかのぼってみます。1945年8月15日を振り返るエッセイの中で宮沢俊義はこう記しています。

しかし、それにしても、高いねだんだった。数百万という人間の命を、徴集令状一本で集めて、これを片っぱしから気前よく消費したものである。

 

宮沢俊義は、1945年にはすでに憲法学者であったので、終戦とともに政府の憲法問題調査会(松本委員会)に関与することになる。その松本委員会が作った草案は、天皇を中心とする「国体」を維持することが前提となっておりそれが毎日新聞にスクープされると、これはいかんとGHQがやってきてマッカーサー草案を提示し、これが日本国憲法の草案となっていったことは周知のとおり。

当時の日本人にとって「国体」というのは非常に大きいもので、マッカーサー草案に先立って各政党が発表した憲法草案でも「国体」を否定しているのは共産党だけだった。

そして宮沢は正直に、「この時点において、『国体』の重圧をおさえつけることが現実に可能であったのは、それがGHQの圧力によって推進されたからであることは、たしかである。」と述べている。あの時にGHQがいなければ、こうはならなかった、と。

 

これがいわゆる「押し付け憲法論」の根拠となる歴史の一端であることに間違いはないでしょう。でも、このエッセイにおいて8月15日に「命だけは助かった」と思った宮沢が、そして自身が憲法を学び外国の立憲主義を知りながら自ら草案を生み出せなかった宮沢が、正直に「日本国憲法が保障する『自由のもたらす恵沢』を望ましく思う人は、結局は、それをもたらした戦争と降伏に感謝することになるだろう。」と述べていることを重く受け止めたいのです。

 

元首相が「みっともない」と呼ぶ憲法だけどさ、97条みたいにいいこと言ってるんだよな。そしてそれは、「高いねだん」だった。

 

 

 

 

 

自由と権利を保持し、拡大するための努力を続けていくためには、歴史を知り、それらを批判しつつ、繋いでいく必要があります。

最近は統一教会関係で、日本の宗教保守とジェンダーの関係が注目されているなかで、やはり若い世代がきちんとジェンダーバックラッシュを知ることが必ずしも十分じゃなかったのではないか、とかも感じています。

フェミニストとして、そして憲法を学ぶ者として、過去の格闘を知り、それを継承しつつ、より公正で平等な社会にむけて努力することが求められているのだなぁ...と月並みな感想を抱いたのでした。

 

 

 

国葬について調べてみた

 

 

日本には幽霊が出る―大日本帝国という幽霊である。

 

 

 

さて、先週、岸田首相により安倍元首相を「国葬」することが発表されました。

安倍元首相の「国葬」 ことし秋に行う方針固める 政府 | NHK | 安倍晋三元首相 銃撃

 

 

ということは、税金から金が出るということ。ということは、法的根拠なり国会の議決なりが必要なんじゃないか...どうなってるんだろう?と思い立ち、サクッと調べてみたざっくりとした成果をここにメモがてらなんとなくまとめておく次第です。

 

国葬の法的問題点

国葬の法的根拠

国葬ってどんな感じ?

国葬の成立

・幽霊が出る

 

 

国葬の法的問題点

国葬の法的問題点については、吉田茂国葬が行われた際に当時の「法学セミナー」に有倉遼吉の論考が載っていました。2022年も一緒じゃねーか!の感を禁じえなかったので、紹介します。(有倉遼吉「国葬―法と政治」法学セミナー (141), 39-42, 1967-12日本評論社

 

問題点①国葬の宗教的形式

日本国憲法20条3項には「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定しています。

これに反しないように、吉田茂国葬無宗教形式で行われたようです。(今回も踏襲されるかも。)

有倉は、無宗教で行われたことは評価するが、政府側の説明がおかしい、と批判しています。当時の政府が無宗教で実行するとした根拠は二つ。

一つは「国葬は国が遺族にかわって国費を支出して行うものであるから、国の宗教活動を禁じた憲法には違反しない」。

 

????

 

有倉も「国葬は国の儀式であって遺族のそれではありえない」「遺族の儀式ならなんで国がお金を出してるの?」とツッコんでいます。

 

根拠の二つ目は「密葬はカトリックでやったので、本葬は無宗教でやります」というもの。これには有倉も「政府の態度には、国教分離という憲法の精神へのきびしい照応が少しも見られない。そのことはまた、国と宗教(神道)が結合していた明治憲法下の事態に対する反省が欠けていることを意味する。」と批判しています。

まさに、大日本帝国の亡霊が、ふよふよと出てくるのが国葬、といったところでしょうか。

 

問題点②国葬の法的根拠

ハッシュタグにもなっていたこれです。国葬令は失効しており、国葬には法的根拠がありません。したがって、どんなことをした誰が国葬になるのかの基準がなく、その時々の内閣の裁量にゆだねられています。

有倉は「準拠すべき法なくして、具体的事案に対し行政措置で処理するというのは、憲法が要求する法治主義に反するのではないかとおもわれる。」と指摘しています。

 

そして、今に至るまで法は制定されず、この古い法学セミナーの記事は、2022年に意味を持つことになってしまうのです。

 

なお岸田首相は内閣府設置法の「国の儀式に関する事務」を根拠として挙げているようです。

確かに、内閣府設置法の4条3項33には「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること」と書いてあります。

しかし、その条文の並びは、栄典や迎賓施設における国賓及びこれに準ずる賓客の接遇とかと一緒に書いてあります。この並びからして、日本国憲法7条天皇の国事行為を想起させます。

7条には天皇の国事行為として、栄典の授与、外国の大使の接遇、そして「儀式を行うこと」が掲げられています。そしてこれらの天皇の国事行為には「内閣の助言と承認」が必要です。

となると、(国事行為の内容を内閣がフリーハンドで決められるのかという問題は抜きにしても)内閣府設置法の該当箇所は天皇の行為に関する事務を内閣がやるっていう話と読めそうなのでは....?(この辺、思いつきで書いていますが。)

そうなるとやはり、元総理大臣を「国葬」することの根拠として持ち出してくるには説得力がないように思います。

 

 

 

 

 

国葬の法的根拠

国葬に反対します の中でしばしば言及されたように国葬には根拠法がありません。

戦前の国葬の根拠となっていた法規則としては、「国葬令」があったものの、1947年に「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定等に関する法律」が施行したことによって失効し、現在、国を挙げての公葬を規定する法律は日本には存在しない。

 

しかし、報道にもあるように戦後、吉田茂だけは国葬が行われている。日本国憲法の下で行われたのであれば、一体どうやって?というのが気になるところ。

結論から言うと、国葬法を作らず、閣議決定予備費から支出するというやり方になっています。

閣議決定であれば、行政権だけで決定できるので国会をスキップできる。お金も予備費であれば、憲法87条に「予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基づいて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる」とあり、計上してある予備費の中から内閣の判断で支出をし、87条2項にあるように「すべての予備費の支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない」という風に後からOKをもらうシステムになっている。

 

もっとも、日本国憲法は83条において「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて、これを行使しなければならない」としていて、財政民主主義が大原則です。この精神に反するのが、国葬という訳です。

 

※そもそも、立憲デモクラシーの会が指摘するように、先般の国会で通過した補正予算では、総額2.7兆円のうち半額を越える1.5兆円が予備費の積み増しです。昨今のコロナ禍を口実に予備費がどんどん大きくなっていて、財政民主主義・財政国会中心主義を予備費の乱用によって破壊する運営がなされています。

詳しくは↓

20220606 UPLAN 立憲デモクラシーの会 記者発表 - YouTube

 

ということで、率直に言ってチートみたいな方法で国葬をしているわけです。

 

さて、予備費で支出したとなれば後日、国会での承諾が必要です。その当時の議事録を見てみましょう。第58回国会 衆議院 決算委員会 第15号 昭和43年5月9日です。

(ここからは細かい国会議事録の引用が続くのでだるい人は飛ばしてください。)

 

まずは「国葬令」が失効していることの確認です。

田中武夫が質問で

まず総務長官にお伺いいたしますが、昨年度予備費の中で、故吉田茂さんの国葬儀に必要な経費として千八百九万六千円が出ております。そこで、昔は、国葬のことにおきましては大正十五年十月二十一日の勅令第三百二十四号で国葬令というのがありました。ところが、今日ではこの勅令は消えておると思うのですが、生きておるのですか、死んでおるのですか、まずお伺いします。

これに対して総務長官田中龍夫がはっきりと

ただいま御質問の旧憲法時代の国葬令、これは今日なくなっております。

なくなってますね!

ないのにどうして内閣の判断でやったんだ!と質問します。

ただ単に国家に偉勲のあった——前の勅令を引用するならばそういうことばになるのですが、そういうことで内閣が国弊にしようときめれば、いつでも国葬をだれにでも行なう、そういうことであっては私はならないと思うのです。したがって、少なくとも今日勅令が死んでおるならば、そういう法律なり何らかの寄りどころというものをつくる必要があると思うのですが、そういうような点についてはどうです。

総務長官が答えます。

ただいま御指摘のように、今後これに対する何らかの根拠法的なものはつくらないかという御趣旨でありますが、これは行政措置といたしまして、従来ありましたような国民全体が喪に服するといったようなものはむしろつくるべきではないので、国民全体が納得するような姿において、ほんとうに国家に対して偉勲を立てた方々に対する国民全体の盛り上がるその気持ちをくみまして、そのときに行政措置として国葬儀を行なうということが私は適当ではないかと存じます。

「法律で国葬法を作っちゃうとみんなが喪に服すみたいになってそれはそれでまずいので、でも故人を悼みたい人もいるから行政措置で国葬をやりました」ってわけですね。ここで「国葬じゃなくて国葬儀」というロジックが出てますネ。また、法律がないことの理由としては、それで結果的に強制になるのもまずいから、というのが当時のロジックのようです。

 

国会質疑としてはさらに繰り返して「先ほど来言っておりますように、あくまで、政府が思いつきでやられることに対してはこれは承服できません。したがって、何らかの基準あるいはそのことによって国民の合意といいますか、そういったようなものが成り立つような人に対してやっていただきたい。そのためにはやはり基準が必要である、そういうことだけを申し上げておきます。」というように田中武夫がダメ押ししています。前段のやりとりでは「そもそも予備費だからって内閣が好きに支出できるってのはおかしいでしょ!」ともツッコんでいます。

 

これに対し、当時の大蔵大臣水田三喜男は

国葬儀につきましては、御承知のように法令の根拠はございません。だから、いまその基準をつくったらいいかどうかということについて長官からお答えがございましたが、私はやはり何らかの基準というものをつくっておく必要があると考えています。幸いに、法令の根拠はございませんが、貞明皇后の例がございますし、今回の吉田元総理の例もございますので、もう前例が幾つかここに重なっておりますから、基準をつくるということでしたら簡単に基準らしいものが私はつくれるというふうに考えています。そうすれば、この予備費の支出もこれは問題がなくなることになりますので、私はやはり将来としてはそういうことは望ましいというふうに考えています。

基準作れそうだから作るよ、と言っているのですが、結局、今に至るまで基準が作られることはありません。

 

 

その翌年、1969年の国会でも国葬の基準の話題が登場しますが、ここでも「いつかやります」という感じです。少し細かく見てみます。

 

第61回国会 参議院 内閣委員会 第25号 昭和44年7月1日の山崎昇議員の発言では

私は、国葬なんというのは、これは表現は別として、国をあげてそのなくなられた方の喪に服するわけですね。そういうものが、国会では何も知りません。ただ政府の考えだけでやられていくということに、私はやはり問題があるのではないかと思うのです。だからそういう意味で、やはりどうしても私は国葬法というものを制定してもらいたいし、そうしなければまずいのではないかと私は考える。そういう意味で、すること自体がどうこうの前に、私は国葬というのは、やっぱり国をあげての葬儀に参列することになるわけでありますから、したがって根拠については明確にすべきだと思います。

これに対して、総務長官の方は、国の費用でやるのと、『国葬』は少しニュアンスが違う。国の費用でやったけど、国を挙げて喪に服したわけじゃないので、今後『国葬』というものを考えるとなるとまたいろいろ検討しなきゃいけないことがありますので...と返しています。

ということで、国会答弁の中では吉田茂の葬儀は国葬」ではなく「国葬儀」だったと。国民を挙げて喪に服したかどうかについては次の節で確認します。

山崎昇議員は、繰り返し質問をして国葬法を制定するように主張します。

しかし私はどうしても、何か行政権だけで、この人が国葬儀、この人は何もしない、こういうことを内閣の権限だけでやることに私はどうしても納得ができない。だからそういうものは一がいにきめられないとしても、ある程度の基準めいたもの、幅というものは私は国会でこれはきちっとしておく必要があるのではないか。それに基づいて個々の具体的な問題については行政権がこれをきめて行なうべきものではないかと、こう思うから、これはしつこく聞いているのです。どうですか。

総務長官床次徳二氏

ただいま御引例になりました国葬の問題、その他いろいろと、まだ新しい憲法の後になりまして、漸次それが慣例ができてまいる、また国民の考え方もきまってまいりまして、落ちついてまいりますると、いつか定着することになり、これが法律化するということになると思うのでありまして、今日はその過程でありますし、多少その点が具体化しておらない。法律化しておらないという結果にもなっておるのだと思います。したがいましてこれに対しましては、いろいろとまだ懸案となっておりますものが数件ございます。これは決してそれでいいというわけではない。いずれはこれは検討されなければならぬものだ。

「もう少し落ち着いたらいつかやる」と答えているわけですが、結局、いつかやろうは馬鹿やろう(あら吉田茂ギャグになっちゃったワ)ということで、そのまま、時は21世紀の2022年になっても国葬法はないまま、っていう訳なんですね!!

 

ということで、今も国葬の法的な根拠や法的な基準なるものはないまま、今に至っているようです。その問題点は、時の内閣のフリーハンドになってしまうという意味で、わざわざ細かく引用した当時の国会議員たちの言う通りです。

 

 

 

国葬、一体どんな感じ?

さてさて、吉田茂国葬は「国葬儀」であって、国がお金出しただけだよ~ロジックも登場しましたが、実際の国葬ってどんな感じなんでしょうか。

今年の秋の未来予想的な感じで見てみましょう。

 

自民党の『政策月報』(故吉田茂国葬儀 政策月報 (143), 104-107, 1967-12自由民主党)に吉田茂のときの式次第が書いてありました。

 

形式としては、三権の長が来て言葉を述べるわけです。さらに皇太子が登場する。

三権の長が来るということは、かなり国を挙げてやってると。(まぁだから「国葬」なんだろうけど。)

 

さらに官公庁は、事実上半休になるようです。

官公庁が半休になるということは、その間、国民は許認可などの申請が受理されないということなので、国民の権利義務関係に多大なる影響が出るわけです。

この辺のことは、もう少し当時の新聞なんかを調べる必要がありますが、とりあえずはこんな感じ。

 

当時のメディア状況を推し量れるのが、国会議事録に残っています。

第56回国会 衆議院 逓信委員会 第4号 昭和42年11月15日での、森本靖の発言です。

そこで、この際ちょっと聞いておきたいと思いますが、私はいま言ったようなことで特に重要だと考えるのは、実はこの間の吉田茂さんの国葬当日のラジオ、テレビのみごとに統制をされた内容であります。 (中略)そういう死者に対する哀悼の意を表するということと、その人の政治的な問題を評価するということとはおのずから別であります。だから、ラジオ、テレビというものは、これはもう政治的には公正中古でなければならぬということははっきり法律にうたわれておるわけであります。だから、死者の霊をいたむということについて、それは大いにやられることはけっこうでありますけれども、それとよってさらに政治的な業績をたたえるということについては、やはりそれに対する反対意見も多数あるだろうと思います。そういう際に、これがどこでどういうふうにだれが命令をしたのかさっぱり——いまになってくると、郵政大臣に聞いてもそういう指示をいたしたことはありませんと言うし、官房長官に聞いてもそういう指示をしたことはありません、総務長官に聞いてもありません、どこからどういう命令が出たのか、幽霊みたいな命令でありますが、それはない、こういうふうに言っているわけであります。  そこで、たまたま総理府国葬のテレビ、ラジオの係の方が来られているそうでありますが、このときに何か要請しなくても、ある程度歌舞音曲は慎んでもらいたいということを、これは新聞に載っておったと思いますが、一般放送界あるいはNHKに言ったことがあるのかどうかちょっと聞いておきたいと思います。

 

幽霊が出ていますね。

答弁としては、そんな指示はしていませんよ、というもの。

 

森本靖は続けます

これはもう特に大臣ということでなしに、この際政府も十分に考えなければならぬけれども、NHKの会長もおられるが、一般放送事業界も相当考えなければならぬ点である。というのは、政府が命令もしないということを正式に言っておる。ただ、しかし、新聞紙上を通じて、歌舞音曲その他については、ということを言った。たったそれだけのことでみごとにラジオとテレビが、いわゆるマスコミというものがあれだけの統一をせられたということになると、日本のマスコミ界というものは二十年昔に戻ったのじゃないかという錯覚を起こす。やはりそういう点については、放送界というものはもう少し自主性を持っていいのじゃないか、こういうように考えるわけであって、政府が何にも言わぬにもかかわらず、ちょっと言っただけであれだけの規制がせられるということになるとするならば、政府がちょっとでも権力を持って命令をしたら日本の放送界が一体どういうことになるのか、そのことを考えた場合には、われわれはマスコミ界の今回のあり方については非常にそらおそろしいものを感じるわけです。そういう点については、私は、政府あるいはまた放送界、放送事業者もやはりもう一ぺん考えてみる必要があるのではないか、また、もう一ぺん深く反省をしてみる必要があるのではないかということをこの際強く言っておきたい、こう思うわけであります。

(強調は私が足しました)

 

まさか当時の人も、2022年の人が「いやぁ~~~~めっちゃわかるわぁ。想像つくわぁ。」と共感できるとは思っていなかったのではないでしょうか。

あえて言うのであれば、70年以上前に戻ったかのような錯覚を私たちはつい最近経験しました。しかもそれを、投票箱が開いている間にね

 

ということで、ざっと調べた資料から推し量るに、到底「国民を挙げて喪に服して」いない、なんていうことはできない状況に至ったようです。

 

(※7月19日追記

この後言及する宮間先生がお調べになったところでは、国民的な盛り上がりには至らなかったとのことです。そちらのほうが正確化と思います。新聞記事などを私はあたっておらず、政治的性格の強い国会議事録から推し量ったのでこんな感じになりました。歴史家の意見は↓の記事をご覧ください。国葬が民主主義に反するといった論点が指摘されています。)

president.jp

 

 

国葬の成立

そもそも国葬とは、ある人の死を私的なものから公的なものへと変化させることです。

そのためには「見せる葬儀」である必要がある。

宮間純一『国葬の成立―明治国家と「功臣」の死』は、今回急いで図書館に借りに行って読みましたが、まさに国葬が成立する過程で見せる要素が少しづつ成立するのを追っています。おすすめです。

 

 

つまり、パレードのようにしてたくさんの人にその人の死を共有させることが、ある意味で「国葬」に内在する性質なのです。(私がこの本を読んでいて面白かったのは、江戸時代までの皇族など重要な人物の死はむしろ隠されて一般の人たちの暮らしから隔絶されたということです。へー!)

 

そして、「国葬」ではありませんが、先週、霊柩車に乗った遺体が自民党本部前や国会前、官邸前をわざわざ回っていき、それをメディアが中継したいた風景がありありと浮かぶ今の私たちにとって、その死を「公的」にする効果というのは実感を持って伝わってくるように思います。

なお、この本では「暗殺」されるとボーナスポイント的に盛大に弔われる原点、とも思える広沢真臣の死について1章扱っていますので、そこもとても興味深く読めます。

 

ということで、「国葬」というからには「単に国家がお金を出してるだけ」とは言えない、内心での弔いを外形的に強制するような効果があるともいえるのではないでしょうか。お金の観点からも大問題ですが、そうした内心への影響もなんだか問題に思えます。

 

 

 

幽霊が出る

暑い日が続くのでホラーで少し涼しくなるのも悪くないのですが、こればっかりはご免被りたい幽霊が最近多いように思います。

そもそも、国葬令は失効しています。その亡霊が、ぶわー-っと現れて、2022年に国葬がよみがえるかのようです。もちろん、きちんと手続を踏んで復活させるのではなく、なんとなーくの亡霊のまま、ずるずると。

大日本帝国憲法下での勅令は、失効したはずなのに。

 

そして、大日本帝国神道とのべったりをやめにして(天皇制とともに戦争のイデオロギーになったから)政教分離で出発したはずの日本国憲法。しかし、政教分離を曖昧にして「あのころに戻りた~~い」という亡霊も、なんだか私にはくっきり見えるのですが....。霊感が強いせいかもしれません。

 

涼しくなりたいのですが、こちらの幽霊たちには退散していただきたいなと思っております。

 

 

 

気が付いたら街宣車の上に立っていた話。

 

今回はかなりエッセイ的な感じでお届け。

 

 

突然ですが、私は人生がぐるぐると回り出す瞬間がたまらなく好きです。

ある日、何の気なしにつけたテレビに映った姿を見て、「この人が運命の推しだ」と感じた瞬間、翌日からめくるめく勢いで人生は回り、今まで見たことないもの、行ったことないところ、知らないことへと世界が開けていくあの感じ。

あるいは、

ある日、図書館で手に取った一冊が、今までと全く違う世界の見方を教えてくれて、その瞬間から世界はまるで違って見えて、別の景色を生きることになるあの感じ。

あるいは、

ある日、誰かが教えてくれた言葉が、今までの曖昧な経験たちに形を与え、自分自身が別人になってしまったようなあの感じ。

 

コンテンツとの出会いの何が楽しいって、コンテンツとの出会いは、人との出会いを生み、人との出会いは、知らない世界へと私を連れ出してくれる。このワクワク感が人生のだいご味なんじゃないかと思うくらい。そして、そんな展開は突然思いがけない形でやってきて、ワクワクの赴くままにチャンスの手を取ると、知らないところにいる。楽しい。

 

 

そんな感じで、私は先週、気が付いたら街宣車選挙カー)の上でマイクを握っていました。

 

 

チラシ折りの女。

きっかけは、日ごろやっている性暴力予防の活動をしているメンバーに、明日のワークショップ終わった後に何か予定ある?と聞いたことです。その友人は、大学教員の知り合いのツテである候補者の選挙事務所にボランティアに行く、と。え~~面白そう!って思いました。それで付いて行っていいかと聞くと、もちろん!とのことで付いて行きました。

その事務所には、当該教員がいて、一度お会いしたことがあったので「お久しぶり~」なんて言いました。その人は、いろんな選挙のお手伝いをしているらしく、大きな声では言えないけど別の候補者も応援しているとのことでした。LINEを交換し、情報共有のグループに入れてもらいました。

へっへ~初めて選挙事務所なんて来ちゃった!ボランティア楽しい~公示日周辺でまた来よう~、そんな小さなワクワクでその日は終わりました。

 

数日後、その人が別の候補者の事務所でボランティアをしているというので、私もそっちにもボランティアに行ってみよう!と、ワクワクに導かれるがままに向かいました。思い返すと、今回の選挙戦が忘れられないものになる分かれ道はこの日でした。

 

向かったのは、福島みずほ後援会事務所でした。

 

その日の作業は、チラシ折り。演説の時に配布されているチラシが折られていたら、あれは一つ一つボランティアが折ってる可能性があります。ほんと、選挙は人の手で作られ、人の手が候補者の名前を書き、人の手が投票しているんだな...なんて感動してしまいました。選挙は民主主義のすべてでは決してないけれど、その重要な局面は、こうした無数の手に支えられているんだと肌で感じ、勉強になった~とウキウキでした。(ウキウキすぎてその日は四谷駅まで歩く途中で、PAULの高ぇパンを買いました。高ぇ~~~~~と思いながら気分がよかったので翌日の朝食用に買いました。)

 

その作業は、淡々としたものなので、手さえ動かしていればおしゃべりは自由です。なので、私はずっとおしゃべりしてました。研究テーマであるリプロのことはもちろん、オリンピックちゃんと総括しろとか、社会保障を個人単位にしろ、とかとにかくあらゆることをくっちゃべってました。あー楽しいね。

そのとき、事務所の方が、「今度、市民スポットと言って市民が応援メッセージを届ける企画をやるんですが、スピーチしませんか?」と聞かれました。正直、どんな感じか想像つかなかったし、フツーにちょっとハードル高いな....と思い、「ああ、まぁ、やれそうだったら」みたいな曖昧な返事でとりあえず連絡先だけ書きました。うーん、ここも運命の別れ道。

 

 

 

 

表現の自由ハイ。

1週間後。

公示日を迎え、選挙戦がスタート。ところが、ちょうどその週は抱えている仕事がありなかなかフラっとボランティアに行けない!歯がゆい!証紙貼りしたい!(公職選挙法には配布できるビラの枚数の規制があるので、配布するビラ一枚一枚に証紙と呼ばれる小さいシールを貼っていく作業が証紙貼り。これもまた手作業!本当に選挙は文字通りハンドメイドです....。そして選挙にコミットすればするほど公職選挙法の細かさが気になってしょうがない!!)(ちなみに、日本の公職選挙法は世界でも有数の選挙規制の細かさで、西洋ではもっと選挙規制が少ないです。表現の自由の大問題です。)

 

もくもくと仕事をしていたら、ケータイに電話が....出てみるとなんと、「市民スポット」のお誘い!

 

加藤シゲアキの『ピンクとグレー』を読んだ高校んときから、面白そうなことが回ってきたときは「やらないなんてない」と決めてる私、「やります!」とお返事。

ということで、人生で初めて新宿西口でマイクを持ちました。

 

「私の身体、私が決める」

 

世界でも、日本でも、これまで使い古されてきたスローガンを、今改めて自分の口で語る。今もなお、新鮮な響きを失わないこのスローガンを口にする。山ほど本を読んできたけれど、これまでの戦いの汗と涙が体中に流れ込んでくるような圧倒的なエネルギーをこのスローガンは持っていて、マイクを握りながらその歴史の一部に自分も加わったのだと理解しました。

そして、その言葉は力を持っていて。遠くからでも何人かが足を止めていたのが、忘れられないです。この時の非常にナイーブな気持ちはこの記事に。

 

watasi-no-namae.hatenablog.jp

あまりに短絡的でナイーブだと客観的には思うけど、でもこの日、私は身体をめぐる戦いの歴史の一部になり、かつ、政治的表現の自由の重要性と力を全身で理解しました。

 

 

ふぅ...面白かった~ということで、この話はおしまい!以上、お疲れ様でした!となるはずでした。しかも、ここでは新たな友人との出会いや古くからの友人との再会もあり、まさに新しい景色を見に行くことで新しい人と出会う、という人生のワクワクのだいご味みたいな展開だったので、もーう本当に大満足!お疲れ様でした~っていう感じ。

 

 

ところが、電話は翌週もかかってきました。前回がこの感動っぷりで、元来オタクなので一度経験した興奮は繰り返したくなる性質があるので、二つ返事でオッケーしました。(その時にしゃべったことはこの記事の一部になってます)

 

watasi-no-namae.hatenablog.jp

 

 

 

人生の伏線回収をする嵐担。

そして、また再び電話。

「今度は市民スポットじゃなくてご本人も来るんですが、どうですか?」

 

一度興奮を味わうと忘れられないオタク、ここでも二つ返事。人前で話すのは緊張するけど、「うわぁ~~~表現の自由行使してるぅ~~~~~~」っていうあの脳からなんかドバドバ出てる感じが本当にやばい。癖になる。おまけにこちとら、社会に対して言いたいことは山ほどある。

 

ところが、情報解禁されると今までとは違うフェーズに入ったことに気づく私。「ん?雨宮処凛とかと並んでんな?????」急に胃が痛い。

(私が中3で右とか左とかよくわかんないからここらで勉強しときますか~って初めて手に取ったのが雨宮処凛右翼と左翼はどう違う?』だったので、うわぁ~本人じゃん~~の思いが強いっす。)

吐きそうになりながら、新宿東南口。そして、スピーチ。

 

まさかあんなに拡散されることになるとは思いもよらなかったので、構図を過度に単純化していたり、あくまでもそうした先達の一人としてリスペクトするというニュアンスがちゃんと伝わったのか、などなど反省点は尽きず....。ただやはり5分で人に伝わる話をする、というのは難しいですね。

「私には夢がある」というのは、もちろんキング牧師からの引用で、日本国憲法97条にある人類の自由と権利獲得の歴史の中に、応援する候補者と自分自身を位置づけました。この点は、私が社会運動をするにあたって気にしていることなので、エッセンスが伝われ~~と思ってます。何より市民スポットをする中で、他のスピーカーがそうした運動の先達で、本で得た知識だけじゃなくて、先達の顔が見えたというのが大きかった。

 

オタクっぽいことをいうと、実は中3くらいまで「私には夢がある」は松潤が出ていた「スマイル」というドラマの松潤演じるビトくんのセリフだと思ってて、笑。彼は外国人差別の上に冤罪を掛けられて死刑寸前になるという、差別や死刑を問うドラマだったからキング牧師なんですよね。この言葉を聞くたびに思い出すのは、松潤の顔です。

さらに言うと、11歳の時に夫婦別姓のニュースを聞いて心動かされたのは間違いないんですが、なんで11歳でそんな熱心にニュースを見ているかといえば、櫻井翔ですね。

忘れもしないイチメン!というコーナーで取り上げてて。

今は、私自身は嵐ファンはほとんど休業状態ですし、政治的には彼に抱く思いは一筋縄ではいかないのですが、やっぱりアイデンティティ形成期に櫻井翔目当てで選挙特番を余すことなく見ていたので、選挙=櫻井、の脊髄反射が抜けず....こんな風に選挙に関わるようになったなんて、あの頃の自分に会いに行って報告したいな。(まぁちなみに私は「選挙行ったよ」というメッセージうちわをアリーナで持ってたことがあるオタクなのだ!)

まぁこんな人生の伏線回収みたいなこともしてましたとさ。

 

 

 

 

 

気づけば遠くに来たもんだ。

話が逸れました。

 

そして、またお呼びが。

 

ここまで来たらもう、当選してもらうまでとことんやるしかない!なんだか怖くなってきたけど(マジでいろんな人から連絡が来ました)、やるぞ!ということで、腹に力を入れて「行きます!」のお返事。3回分あったので、3回分それぞれ違う内容を話したので、原稿づくりが大変でした。(なんとなく毎回聞いてる人もいるし、私は今回は何かの「専門家」ではなく「若い女」という立ち位置だったので話題が豊富な方がいいだろう、という判断で毎回違う話をしました!!)

 

そして、やって来ました品川駅高輪口。いや~~~昔、付き合ってた人とデートに来たぜ!あと大学受験の時に近くで宿を取ったぜ!!思い出がいっぱい。(アンナミラーズ閉まっちゃいますね...。)

 

街宣車を置けなくてすみませんね」と言われるも、よくわからないまま、道路脇でスピーチ。(もう4回目とかなのでだいぶ慣れてきた。正直、脳みそ的にはもう少しなんか物質を出したいところだが、慣れであんまり出なくなってきた。)

 

次は、港南口。こっちは嵐ファン的には、プラチナデータでニノが走って逃げるシーンのロケ地だなぁ~とか思いつつ、その場に来ていた方とおしゃべりしながら移動。(この移動のときに、知らない人から「こないだまで大学でジェンダーとかやってたんですけど、動画みました!すごい感動しました!」という声掛けをされて、嬉しかった!言葉が届くとは嬉しいものですね。)

 

「こっちは街宣車あります!」と言われて手招きされ、「えっ、えっ、えっ」となる私。いやいや聞いてない、聞いてない。それ上るって聞いてないから~~~!!!(エコー)

 

聞いてなさ過ぎて、スカートにヒールのサンダルで来たぜ...マジで......と思っていたら、鍛え抜かれた事務所スタッフのみなさんがいい感じにスカートの中を隠しながら、はしごを上っている間をガードしてくれる親切仕様でした....。と、いうことで。

 

 

気が付いたら、街宣車の上。

 

 

さすがに脳内物質めっちゃ出た。フツーに興奮した。

人生にこんな場面、来ると思わないじゃん?もともとチラシ折ってたんだけども私??

 

オロオロしていましたが、Show must go on!小さいころからバレエやってるんで、ステージに立ったらやりきるしかないことは十分承知しているつもりです。新宿駅東南口に引き続き、気を引き締めて、脚は一番安定する仁王立ちで踏み込んで。話し始めれば、話したいことは山ほどある。

 

街宣車を見上げることはあっても、ここから景色を見るとは思わなかったので、目に焼き付けました。

ワクワクの予感に誘われるがまま、「やらないなんてない」と見切り発車のまま、気が付けば知らない景色と新たな出会い。いや~~~マジで楽しかった。胃が痛いところもあったけど、総合的には楽しかった。

 

 

なお、7月8日が最後の私の応援でした。

街宣車(2回目)に備えて、ジーパンにスニーカーで行きました!登りやすいね!!

最後のスピーチは、セクマイ差別について。自民党の差別なんてもう慣れたもんよ、と怒りを飼いならせているつもりになっていましたが、いざ話し出すと声が震え、怒りに足が震え、仁王立ちで踏ん張ってないと倒れてしまいそうでした。それで絞り出したので、個人的にあれが最後でよかったなーと思います。

そして、街宣車から降りて、ふくしまさんの演説を聞きます。なんだろう、もう泣けて泣けてしょうがなくて。マスクの中がびっちゃびっちゃになりました。全部終わった安心感もだし、その演説がとても良くて、もう拭っても拭ってもどうしようもできないくらい泣きました。

こうして、私の思いのほか長く熱く予想外な選挙ボランティアは幕を閉じました。

 

 

 

 

「政治は希望」

 

泣けて泣けてしょうがなかった。

一つ一つに「おかしい」と指摘する演説に、すべての子供が将来を描ける社会にしたいと訴える演説に。

まさかこの年齢になって、(純粋に選挙は民意の反映だ!なんて思ってた17歳のころなならいざ知らず)「政治は希望」なんて素面で思うと思ってませんでした。

私が小さいころ、10歳くらいのころ、漠然と怖かった。

私はクラスの誰よりも頭がよかったし、クラスで一番ピアノがうまいのも、料理がうまいのも、みんな女の子だった。でも、総理大臣も科学者も経営者もみんな男だったし、有名な音楽家はみんな男だったし、テレビに出ている有名な料理人もみんな男だった。だから、これから追い越されて女はみんなダメになっちゃうんだ、と感じていた。

だからこそ私は、過去の私に、そんなことないよと言ってあげたいと思いながら最近は生きている。私はたくさんの権利獲得の先に生きていて、そしてこれからの子たちに、どんな将来も思い描けると伝えたいから社会運動ができる。

 

私がいま、高等教育を継続できているのは、はっきり言って親の経済的階層に起因している。私なんかよりも、大学院に行くべき人間はもっとたくさんいたはずだ。

だからこそ今回のスピーチや応援活動は、私の持っている特権をうまく活用したいとの願いからで、その特権はより公平で公正な社会になるために使いたいと思って来ました。

すべての子供が将来を描けるために、教育費の無償化、ジェンダー平等、もろもろの差別撤廃、、、、これを目の前のこの人は歴戦の先にまだまだ戦い続けて、獲得しようとしているんだと思うと本当にこの人を応援してよかったと思いました。

 

 

今回、こんな風に選挙戦にコミットすることで、言葉の力を実感しました。

私の言葉に街頭で足を止めてくれた人、動画を見た人、リアクションをくれた人...こんな風に言葉って人に影響を及ぼすのだと。だからこそ、民主主義の根幹のために表現の自由は大切、という聞き飽きた説明は成り立つのだと思いました。

また、政治家が私の声を聴き、うなずき、応答する、というのは政治的自己肯定感が爆上がりでした。しかも、きちんと当選し、政党要件も確保!本当に嬉しかった。

インタビューでは、若い女性の支持に言及しており、私や街頭演説で出会ったたくさんの人たちの顔が浮かびました。本当に、政治とは開かれたコミュニケーションのなかで、人の手によってコツコツと作り上げられてゆくのだと目の当たりにできた貴重な機会でした。

TBSラジオ「荻上チキ・Session」:Apple Podcast内の参議院選挙2022【社民党・福島みずほ党首インタビュー】

 

一方で、私が「表現の自由」を行使できることは、本当に本当に特権的なことだとも感じました。平日の自由な時間、必要な知識を集められる環境、当然のように持っている国籍と選挙権。あるいは、ある一定の層には当然の主張を展開し、「不快さ」を作らない表現だったこと。(ネトウヨ的には不快でしょうが。)

この辺はもっともっと詰めて考える必要がありそうです。特に、無数の守られてこなかった、無碍にされてきた「表現の自由」を想う必要がある今、現在の状況では特に。

 

 

 

そんなこんなで、うだうだとお届けした私の参議院選2022選挙戦でした。

いや~~~アツい夏でした。(まだ終わってないけど。)

楽しそうな方、面白そうな方、ワクワクしそうな方には、やっぱり行ってみるもんです。

 

 

 

「不健全」?

 

最近あったこのニュースについて、メモを残しておきたいと思います。

 

www3.nhk.or.jp

 

コロナ禍における持続化給付金が、性風俗業者を排除し給付の対象としないことを「職業差別だ」として憲法14条平等に反すると訴えた裁判で、東京地方裁判所は「合憲」という判断を下したというニュースです。

異なる取り扱いをするのに合理的な理由があれば憲法違反とならないのですが、本判決は性風俗業が不健全であって国民の理解を得られないものであるから給付金から排除するのは合理的理由があるよ、というストレート差別論理で判決が出て衝撃を呼びました。

(判決文には「我が国の国民の大多数が、性行為や性交類似行為は極めて親密かつ特殊な関係性の中において非公然と行われるべきであるという性的道義観念を多かれ少なかれ共有していることを前提として、客から対価を得て一時の性的好奇心を満たし、又ば性的好奇心をそそるためのサービスを提供するという性風俗関連特殊営業が本来的に備える特徴自体がこうした大多数の国民が共有する性的道義観念に反するものであり」とかあります。)

判決文などなどはこちらから全部見れます。

 

今回の訴訟において、憲法学者の意見書も提出されており、木村草太先生なんかも意見書を出しています。

 

ポッドキャストの中で、本件を担当している弁護士の亀石さんは、多くの憲法学者がこれは差別だと言っていると言っていて、まぁ確かに憲法学の人はそういうだろうけども、、と思いました。

TBSラジオ「荻上チキ・Session」:Apple Podcast内の特集「2つの重要裁判判決からみる日本の課題~<生活保護・基準引き下げ裁判><風俗業へのコロナ給付金・裁判>」小久保哲郎×亀石倫子×荻上チキ×南部広美

というのも、いわゆるセックスワークに関する議論というのは、議論の蓄積が少ないと指摘できるように思うからです。(そもそも表現の自由か、職業選択の自由か、営業の自由かというように領域がものによって異なると思いますが。)

わいせつな表現などは表現の自由分野で長年論じられてきましたし、同性間の性行為の規制などもみんな道徳を法とするよくない過去の実践であって、現代においては法と道徳は区別されるというのは、おそらくほとんどの憲法学者の間で共有されていて、その論理を一貫させれば性産業の「不健全」だとか「不道徳」だとかは法的な議論で考慮される要因にはならないので、まぁ...それで区別したら差別だ、と論じる人は少なくないだろうなとは思います。一方で、性産業についてはあまり議論がなく、わざわざ論じたくないという向きもあったのかと。(中島徹古典的自由主義憲法哲学と風俗規制」阪本昌成先生古稀記念論文集『自由の法理』成文堂、2015年においても、憲法学者の黙認は風俗規制において顕著である、と。)

 

そもそもポッドキャスト内で亀石先生が言っているように、風俗営業(お風呂屋さんとかもろもろ)は「許可制」ですが、性風俗営業(いわゆるフーゾク)は「届け出」制であってその理由からしてかなり差別的。

専門用語的には「許可制」は原則禁止されているものを、ある場合にのみ「許可」するもので、「届け出制」は原則として許されているが好き勝手やるとちょっと混乱が起きそうなときに届け出てくれれば原則として誰でもできるよ~というもの。「届け出」の方が緩い。

性風俗営業はかなり厳しく規制されている印象があるなかで「届け出」制なのは、国会の議事録に立ち返ると、「許可」をしてしまうと国家がお墨付きを与えているような印象になってしまうので、そこはグレーな感じで「届け出」制となっている。ふつうにひどい。

(「風俗関連営業というのはいわゆる性を売り物にした営業でございまして、これは公に許可をして認知をするという性格のものではないというふうに考えておるわけでございます。」という答弁)

この法律の建付けや国会の議論を根拠に、今回の「不健全」だから給付しなくても合憲だ、が導かれているわけです。

そもそもいわゆる「自由恋愛」論によって売春防止法の例外を風営法が作っているというよりも、警察の立証の難しさがあり、結局、摘発するもしないも警察の胸先三寸といった具合になってしまっている。警察権力を法律によって適切に規律できておらず、それがいわゆる「いかがわしさ」に起因しているので、大問題だ。スーパー省略して書いてるので、図書館に行って読んでくれ....。

(岩切大地「売春法制と性風俗法制の交錯ー個室付浴場規制の法的性質をめぐって」陶久利彦『性風俗と法秩序』)

 

こうしたことを踏まえて、憲法の観点から論じるなら、モラリズム批判(法と道徳を同視してるんじゃ)が成り立ち、そして営業の自由を規制する合理的な理由があるのか、あるいは本件のように区別をする合理的理由があるのか?が問題となり、道徳を除いてないのではないか、合理的理由はないから違憲な差別という結論に至る。

(ちなみに、セックスワーク論に立場に近い論考として松井茂記「売春行為と憲法」『自由の法理』がおすすめです。カナダはその後の立法でかなり規制する方向に動いてしまったのだけど、ベットフォード判決で「セックスワーカーの安全性」と言う視点が打ち出されているのがいい。)

 

そんな中で、今回の判決は実は、冒頭で引用した中島の書いたものを思い出させたのです。

中島論文は、性風俗規制について論じた文章の小括として以下のように論じている。

 

性風俗規制は被害者なき犯罪であるにもかかわらず、規制を是認するのであれば、その根拠は「性行為非公然性の原則」に求められることになる。しかし、この原則は自己言及的にしか合理化できず、これを法的に「正当化」するのが、憲法よりも下位の規範である刑法175条や風営適正化法である。

「これは、法が性道徳に、性道徳が法に根拠を求める一種の循環論法であることを意味する。この循環の中で法執行機関のひとつである警察(公安委員会)が取り締まり権限を獲得し、それを世論が支えるという連鎖が、性道徳の生成メカニズムなのである。とするとこれは、権力が守るべきモラルを指示するパターナリズムではなく、皮肉なことに、ある種の自制的秩序ということになる。」

 

つまり、性風俗やわいせつ規制の分野は国家による道徳の押し付け・決めつけを憲法上正当化できるか?いや、できないだろう、という議論レベルで行われる印象があるなかで、中島論文は、むしろパターナリズムよりも自生的秩序であるのではないかと分析し、反モラリズムの(つまり国家が道徳を押し付けることに反対する)古稀を迎えた先生に対して、この場合はどう応答するのかと突き返している。

(今回の判決でも、「性行為非公然性の原則」という道徳が、風営法の中に性風俗営業のみを「届け出」としていることを支え、同時に風営法の建付けそのものがそういう道徳を支えている。)

 

今回の判決に話を戻すと、裁判所が「不健全」だとし、社会的な差別に加担したことが非難されています。その通りだと思います。

しかし、裁判所がモラルを振りかざし、差別に合理的理由がある、とだけした判決で、国民感情はその正当化のために後付けされたものなのか?いや、これは裁判所のトンデモ理論というよりも実は日本の性に関する法律に内在する根本的な問題が露出した瞬間なのでは...とも思いました。

 

少数者に対する差別なので、大多数の人の感情なんて知ったことないよ、というのは正当な批判だと思います。

ただ、同時に、今回のコロナ給付金以外にも膨大に存在する性産業関係の規制を思う時、そしてその手の法律は存在する社会とは無関係に存在しえないとき、改めてセックスワーカーを苦しめる「スティグマ」を法からなくし、そして社会からなくすのは、制度論と意識の問題の双方に取り組み、糸をほどいていかないとダメなんだなぁと感じました。

何より、今回のコロナ給付金問題だけでなく、直近の国会で成立したいわゆる「AV新法」では、20歳以上の人も含めて規制が拡大しました。また、困難女性支援法の成立により売春禁止法は一部改正されたが、その際に、売春防止法の抜本的な改正について議論はひらかれたものとはなりませんでした。

ということで、もう正面から議論せずにはいられないところに来ているのではないか...との思いを強くしたニュースでした。

 

もちろん高裁に訴えるようですし、実際に日本で暮らしている人の意識が「不健全」なものと風俗営業をみなしているのかを調査するかも...と言っていたので、まじで頑張って勝ってほしいです。

 

ちなみに、まとまっていておすすめなのは『性風俗と法秩序』という本です!

 

生きる樹

 

週1でここを更新してみるチャレンジをなんとなく開催しています、こんにちは。

 

また今週もちょっとしたスピーチをする機会があったのですが、その始まりはこんな感じにしてみました。

 

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最近、ショックなニュースが二つありました。

一つは、大阪地裁。同性婚を認めないことは合憲。

一つは、アメリカ。中絶の権利は憲法上の権利ではない。

 

なんで?差別でしょ。

私の身体は私が決める、基本的人権でしょう?と思う。

 

この二つの判決には、共通点があります。「憲法にはそんなこと書いていない」です。

憲法に書いてない、憲法が書かれたときには認められていなかった。

婚姻は生殖の保護する制度だと考えられてきた。中絶はずっと犯罪だったんだ。伝統と秩序ある自由に基づいていないといけない。

 

これに対して、カナダの新聞はこう書いて、アメリカの判決を批判しました。

憲法は、living treeだ。」「生きる樹」だと。

憲法は制定された時点で凍結されるのではなく、生きる樹のようにぐんぐん伸びていくものだと。

憲法は、人権を守るために生きる樹を延ばすことができます。

 

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カナダには「生ける樹」理論というものがあり、それはそれで理論的に細かな点があるのですが、イメージとして樹というのはわかりやすいので、単純にネーミングが素敵だなと思います。

まぁカナダを持ち出すまでもなく、憲法のようにある程度抽象的な文言で書かれたものを解釈していくという営みは、必然的にそういった側面があるかと思いますが、中絶だとか同性婚だとかに関しては理屈が壊れてしまっています。

 

アメリカでは、いわゆる「中絶の権利」の根拠条文として修正14条のデュープロセス条項から書かれていない権利を引き出す「実体的デュープロセス理論」というのがあって、そこから中絶の権利を引き出しています。

同じやり方で、避妊の権利や同性間の性行為を犯罪としないこと(親密なものとの性行為の権利)、同性婚なんかを引き出しているので、しばしば報道で「中絶の権利の次は、同性婚が危うい?」とされているのは、同じ理屈から引き出されているものの根本的な理屈が攻撃されたのが今回の判決だから。

(ちなみにしばしばプライバシーの権利という言葉が見受けられるのは、避妊の権利を引き出すにあたって、警察といえども夫婦の神聖なベッドルームに立ち入ることはできないというプライバシーの考え方を用いて、避妊具の使用を犯罪とすることを違憲としたからプライバシーの権利の議論から中絶まで連綿と続いているのです。のちに、大学で避妊具を配布した事案についてもそれを犯罪とできないとしたので、避妊具を使う権利は、夫婦の権利ではなく個人の権利であることが確認されました。)

もちろん、アリトー判事の書いた法廷意見は、避妊や同性婚に今回の判決は影響を及ぼさないと言っています。

なぜなら同性婚や同性間の性行為、避妊は他人を害さないけれど、中絶はRoe判決のいうところの潜在的生命を害するから、ということ。

キャヴァノー判事もわざわざ同意意見を書いて、この点を書いて強調しています。

にもかかわらず、保守判事の中でも保守であるトマス判事は、実体的デュープロセス理論そのものが間違っているのであって、今回は中絶についての判断だが、将来的には避妊や同性婚についても再検討にさらされるだろうと書いています。

 

判決が下された日、日本時間では金曜の夜でしたが私はYoutubeでCNNかなんかを見ていたのですが、そこの司法担当記者が、法廷意見は論理的には一貫しておらず、むしろトマスの方がその点、一貫していると言っていました。つまり、やはり理論的に考えて同性婚等々に影響を及ぼさないはずがない、と。New York  Timesのポッドキャストでも同じようなことが指摘されていました。

The Ezra Klein Show:Apple Podcast内のThe Dobbs Decision Isn’t Just About Abortion. It’s About Power.

また、今回のDobbs判決では、先例拘束性の原理と呼ばれるものも争点の一つになりました。先例拘束性の原理とは、法の安定性・予測可能性のために先例はのちの裁判所を拘束する、という考え方です。

Roe判決は1973年に下され、50年以上もアメリカの法として機能してきました。それを覆すことに理由があるのか、ということです。Roe判決よりもマイナーですが、今回、少なくとも英語圏ではRoe判決と並んで言及されるCasey判決は、1993年にRoe判決が覆されそうになった際に、Roe判決の理論をかなり換骨脱胎して、「不当な負担」テストへと判例を変更しつつも、判決の中では「Roe判決の本質的判示は維持される」とした判決です。つまり、かなり内容をいじったけど「Roe判決は覆してないよ!だって先例拘束性の原理が大事だからね!」という感じ。

今回の判決は、Roeだけでなくその継承をしたCaseyもろともひっくり返す必要があったのです。

で、結果として覆し、先例拘束性の原理も絶対ではない、と。確かに先例拘束性の原理は絶対ではなく、判決の中で引用されているように、「分離すれども平等」と判示したPlessy判決を、かの有名なブラウン判決が覆して白黒別学は憲法違反だと言ったケースなどがあります。

ですが、これも金曜の夜にニュースをみていたら司法担当記者が言っていましたが、権利を狭める方向でこのように覆されるのは異例です、と。

 

そして、1973年のRoe判決が覆され、その後に出たのが同性間の性行為や同性婚の判決ですから、やっぱりその辺に影響が及ぶのかな....と心配せずにはいられません。

 

 

ちなみに、その他、判決前後でいろいろメディアを見ていて確かにそうだな~と思ったのは、今回の判決は驚くほど妊娠する人の権利に言及していない、というNew York Timesポッドキャストの指摘です。

私はこの構図そのものが女性差別的であると批判的ですが、法学において、まさにRoe判決において、中絶は女性と胎児の利益対立として論じられてきました。そのバランスのとり方こそが問題であったはずです。

しかし、今回の判決では、胎児についての詳細な描写(いつごろ小さな爪ができる...)にも関わらず、妊娠した人についてはほとんど言及されていません。バランスどころの話ではないのです。

胎児の詳細な可視化を進め、人間化すると同時に、妊娠した人は不可視化されるというのは、日本語では塚原久美さんの研究(『中絶技術とリプロダクティブ・ライツ』)で言及されていますが、それが如実に出てるな~と思います。

 

 

さらにちなむと、今週はアメリカ各州で様々なリアクションがありました。5月に判決がリークされたときにさんざん報道されたように、トリガー法と呼ばれるRoe判決が覆った瞬間に中絶を禁止したりかなり厳しい規制を課すことができる法律が保守的な各州で用意されており、それが実現したので、各州で続々と施行されたわけです。

しかし、州レベルの司法の方が反応をして、そうした法律を一時差し止めています。

Louisiana, other state judges block laws meant to trigger abortion bans shortly after the Supreme Court decision | PBS NewsHour

また比較的リベラルな州では、アクセスを改善する法律を通したり、州の憲法を改正して中絶の権利を書き込んだりしています。

New York Moves to Enshrine Abortion Rights in State Constitution - The New York Times

 

 

とにかく膨大なニュースがある中で、個人的に興味をひかれたのは、精管切除手術の希望者が増えたというニュースです。自分のパートナーを妊娠させたら大変だ...という考慮からなんでしょうね。

U.S. doctors see spike in vasectomies following end of Roe v. Wade: report - National | Globalnews.ca

 

 

好きなことを書き散らしました。

 

あんまり「生ける樹」の話をできなかったけれども、ショッキングな判決が出てから1週間のメモみたいな感じで書きました。

 

今週の日本的には以下のニュースも外せないっすね。

中絶の配偶者同意なくして 8万人の署名提出へ 研究者や助産師ら:朝日新聞デジタル

 

世界の中絶事情について簡単にまとめたのと、私の関心のあるカナダのリアクションなんかもちょっと入ってるBBCスペシャル番組は以下。

Global News Podcast:Apple Podcast内のAbortion rights around the world