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大学院生のメモ置き場。ふぇみ的な書き散らしなど。

こんにちは、フェミニストの私。さようなら、私の内なるマギー!

 

国際女性デーということで、自分の話を少し。

 

 

部屋の掃除をしていたら、とんでもないものを見つけた。

高校三年生の時の文集、「常識を疑う」というテーマで高校生が思い思いの小論文を書いている。そして私は「シンデレラと女子力とフェミニズム」というタイトルの小論文を書き、見事クラス内で選抜され、年度末の文集に載ったのだった。

 

その内容がひどい。

 

短いので恥を忍んで、全文引用する。

「シンデレラと女子力とフェミニズム

 

 もしもシンデレラが継母のいじめに耐えかねて「ふざけるなババア」と反旗を翻し、自由を手にする物語だったら。きっとシンデレラは女性の憧れにはならなかっただろう。その手のプリンセスは皆、美しいだけでなく健気でいじらしく、受け身だ。だからこそ王子様に見初められて幸せを手に入れることができるのだ。

 女性の社会進出に関する問題は男性や男性を中心としたかつての社会に問題があるように語られる。しかし私は、女性にも問題があるように感じる。

 「女子力」はその最たるものだ。「女子力」はその名の通り、対男性を意識して相対的に女性らしい能力を指す。この言葉のやっかいな点は、容姿や趣味だけでなく言葉使いや振る舞いなどまるでプリンセスのような旧来的女性像を押し付けてくる点だ。そして昨今、この言葉が大流行し、女性は多かれ少なかれ「女子力」を追及している、あるいはすべきものという風潮がある。

 確かに、二三十年まえは女子力の高さが幸せに直結したのかもしれない。「女の幸せ=結婚」が、今以上に強かったころは、女性らしく振舞った方が得だったのかもしれない。でも今は、流れが変わってきている。建前上は、男性と対等に渡り合うことが求められている。

 「女子力」はこれに逆行する考え方ではないだろうか。どうして「女性らしさ」をとりたてて追及する必要があるのだろう。健気でいじらしいシンデレラをそこまで理想化するのだろうか。二十世紀の遺産は、男性上司や社会の構造だけじゃない。女性の心の中に、いつまでもキラキラと輝くガラスの靴が残ったままなのだ。壁ドンも顎クイも全部受け身。現代版女大学ともいうべき「女子力」の大流行には疑問を感じる。社会を変えるためにはまず自分たちの意識を変えよう。私たちを幸せにするのは王子様だけじゃない。ガラスの靴を脱ぎ棄てて、厳しい社会でハッピーエンドをつかむこともできる。

 

フェミニズム」と冠したアンチフェミ作文である。

ひどい。

タイムリープして過去の自分を殴りに行きたい。そしてそれを中年の男性教師に「素晴らしい」とほめたたえる評がついた状態で文集として公開されたことを誇りに思っていた自分、まじ恥ずかしすぎる。

 

「昔は男女不平等だったかもしれないけど、今は男女平等なんだから、女が活躍できないのは努力が足りないから。女子力とか追いかけてないで、努力して社会的に成功しろ!」 

いや、どう考えてもアンチフェミニストの言説だろ.....。

アンチフェミニストというか、ポスト・フェミニスト的な言説かもしれない。もう男女平等は達成されたという認識に立ち、lean in(リーン・イン)して社会的に成功してキラキラしよう!というとする。ポスト・フェミニズム状況と「女子力」が結びつくことを考えればさもありなん。

ここ数日、この作文を掘り返してからというもの「ポスト・フェミニズム」と呼ばれるような状況(現在の私の認識として「フェミニズムの課題が終わった」ということはありません)を学んで、私はその波の中にいるからすごく無意識に取り込まれてしまっていたんだ....と反省しました。

 

 

ということで(?)、せっかく大学を卒業するので、アンサー作文、ってか当時の自分への手紙を書こうと思う。

 うまく書けるかわからないけれど。

 

 

 

「こんにちは、フェミニストの私。さようなら、私の内なるマギー!」

 

 こんにちは、こちらはすっかりフェミニストになった私です。

 あなたの作文はひどいものですが、高校三年生なのでギリギリ許してあげましょう。今は2020年ですが、大手メディアの記事がもっとひどいみたいなことも定期的にあるので、ギリギリ許します。

 突然ですが、どうして「女子力」を追及してはいけないのでしょうか。きっとあなたはこう答えます。「チャラチャラした女は舐められるから。」そうです、女は舐められます。でもそれって舐めてくる奴が悪くないですか?どうして女性らしい服装をしたり、ふるまいをしたり、言葉使いをしたら舐めて、二流市民扱いしてもいいんですか?誰でも平等に尊重され、扱われるべきだとしたら、なぜ男性のように、否、男性に対等と思われるような恰好をしなければならない理由はないはずです。フェミニストは、ひらひらしたプリンセスのような服を着ても、メイクが好きでもなれます。フェミニストは、ガラスの靴を履きたければ履けばいいと言います。そしてフェミニストは、プリンセスのような恰好をしていても舐めるな、舐めてかかってきたら許さねぇぞ、という話をしています。あるいは、チャラチャラしたセクシーな恰好をしていたとしても、それで馬鹿にしたり、暴力を振るう奴を糾弾します。

 「女子力」を追及する奴がいるせいで、私が料理が嫌いなこと、子供が嫌いなこと、言葉使いが汚いこと、諸々を非難されるじゃないか。あるいは学校の中で「女子力」の低い女として扱われるじゃないか、と言いたいかもしれません。まずフェミニストは、「女性らしさ」を押し付けられることに反対します。ヒールを履いてもいいし、メイクをしてもいいけど、それを「しなきゃいけない」のは違うよね、抗おうぜ!と考えます。そういう意味では、2015年のあなたの味方です。ブスのインテリだからでしょうかね....いたずら告白してきた同級生を、フェミニズムは非難しますよ。「女性らしさ」の押し付けに反対し、「女らしくないからってバカにしていいわけじゃないからな!」とぶちぎれます。

 で、確かに、「女子力」の高い同級生たちは「女性らしさ」を再生産しているかもしれません。しかし、それは本当に同級生たちのせいなのでしょうか?あなたにとって、高校生活は社会のすべてかもしれませんが、案外その外側にも世界は広がっています。「女子力」の大合唱をしたのはどこの誰ですか?テレビですか?雑誌ですか?私が子供と料理が嫌いなことに文句を言うのは誰ですか?まず自分の母親ですね。同級生も母親から何か言われているかもしれません。知らんけど。そうやって想像力を広げてください。世界中のあらゆる場所で、再生産は起きています。再生産に大きな影響力を持っているのは、マスメディアとか、政治かもしれません、もっと広いかも。それがあなたの作文にも出てくる「社会構造」です。世の中は、女の子が女の子らしく、ある種の「女子力」を追及するようにできています。同級生たち個々人ではなく、その社会構造を考え、批判するのがフェミニズムです。だから目に見える同級生たち、あるいは女性たちを「お前らが女子力なんか追及するからだ」と言うのはお門違いです。考え直してください。

 さて、ここまでの話はもういいよ....高校という狭い世界の中で生きる中で「女子力」とかスクールカースト的なものとか、服装とか、そういうことにかこつけてフェミニズムを語ったことは間違っていました、と認めるでしょう。過去の私は「でも!女も男と同じくらい努力して、男女平等ってことになった世の中で成功を勝ち取らなきゃいけないのは真実でしょ?そのためには服装とかメイクとかに構っていたら、闘いに負けてしまう、そういうことが言いたかった。もっとたくさんの女が勝たないと、女性の社会進出は進まない」と、そうお考えでしょう、2015年の私。王子様を待たず、ガラスの靴を脱ぐ、というのは「専業主婦」のイメージのように恋愛で成功をつかむのは過去のモデルであり、「厳しい世界で新しいハッピーエンドをつかむ」というのは、自由競争の厳しい社会においてビジネスなどの仕事で成功する、ということを意味しているんでしょ。

 まず一つ目。これは今の私にも通じることですが「努力が直接報われる」と考えているあなたのまっすぐさ、幸運だったということです。大好きな櫻井翔君が言いそうな精神論を言っているのではなく(「努力は報われるとは限らないけど努力しろ」という話ではありません)、自分自身が持っている特権に気づかないでいられたのはとても幸運だったということです。中学から私立に通い、大学受験に向けて当然のように学校の中の空気が変わる世界に生きているということを指摘しています。のちに東大の入学式で似たような話を上野千鶴子という人がするので、それを聞いてください。先に言っておきますが、あなたは東大には合格しませんよ。努力しても報われないこともあったね、ってかそういう話じゃないんだけど。属性に関わりなく、自由競争の中で、努力すれば勝ち抜ける、というのは社会構造を考える視点が抜けています。さっきの「女子力」高い同級生の話もそうですが、あなたは話を個人に還元しています。個人の服装や個人の努力に。個人で努力して勝ち抜ける自信があるのは結構ですが、失敗したらどうするんですか?自分の努力が足りなかったから?事故にあって、働けないからだになって貧しくても自分のせい?毎日イトーヨーカドーの前の交差点でここで轢かれて死んだら楽なのに、って思ってた時期あったけどそれで死にきれなかったらどうすんの?あなた、元々身体弱いでしょうが、そんな奴がゴリゴリ働いて勝ち抜けるとでも思った?学校じゃ頭が良くて個性的、主張の強いあなたにとって競争の中の個人主義は魅力的でしょう。偏差値が高い私は学校の先生からは評判が良かった。でもね、それでいいわけ世の中。

 次に、「厳しい世界」といった社会のこと。あるいはあなたは高校の卒業式の答辞で「グローバル化による国際競争の激化は私たちを増々貧しくする」とスピーチしますが、それでいいんでしょうか。競争は厳しい、勝つためにはもっと努力を!自由な市場で勝ち抜くぞ!!失敗したお前は努力が足りなかったから、自己責任で、国は責任を持ちません。あなたの作文、及び卒業式の答辞は、そんな社会に適合して勝ち抜くぞ!という勢いに溢れています。元気そうで何よりですが、他の人のことを考えてください。あなたは自分の成功に集中するだけの環境を偶然持っていますが、そうではない人もいること。そういう人も安心して暮らせる社会がいいと思いませんか。経済の自由競争を推し進め、競争力アップや自由な働き方を旗印にフリーランスや非正規雇用を推進し、自己責任の名の下で財政を切り詰める。めっちゃ大雑把にいうとそういうの新自由主義と言いますが、そういう新自由主義社会に迎合するんじゃなく、批判するという道もあります。自由な競争の名前で、現実にある社会構造や格差・差別を覆い隠し、競争に負けた者たちを切り捨てる、そういう在り方を批判できる。あなたはそんなに力まなくていい。男並みに努力して、そういう能力を要求する世の中に迎合して、必死に頑張って、頑張らない女を見下す。高校三年生のあなたはそういう奴だよ。彼女たちは知っているんだよ、こんな激しい競争社会で、女らしさを身に着けることも一つの生存戦略だって。ねぇ、そういう社会そのものを批判しよ。それがあなたが手に入れた「フェミニズム」という言葉が開けてくれる扉です。まだ手に入れたばかりで使い方を間違ったようですが、フェミニズムは女が女を批判するための言葉ではなく、女を抑圧する社会を批判する言葉です。

 ちょっと偉そうに過去の自分を説教してしまいました。ここまで、過去の自分のことを「あなた」とか「2015年の私」とかなんだとか呼んできましたが、あなたのことを「内なるマギー」と呼んでもいいですか。そして、大学卒業を機に、いい加減あなたとお別れしたいのです。「マギー」というのは、覚えてますか?中三の時の文化祭のクラスTシャツの背中に、クラス全員の名前を書いたとき「さっちゃー」ってあなた名乗りましたね?その人です。マーガレット・サッチャー、イギリスの首相です。歴史の教科書に「鉄の女」と書かれ掲載されていた彼女は、当時の私には魅力的に写りました。文化祭に際してクラスを率いる私は「さっちゃー」と呼ばれてもいないあだ名(当時のクラスTシャツはそうやって呼ばれていないあだ名を書いた)を記しました。そのサッチャーです。強くて、憧れでした。当時は不勉強だったのでイギリスの女首相ってことくらいしか知らなかったけど、彼女は極めて評価が別れる存在で、ここまでのこの作文の文脈に沿って言えば新自由主義者で、自己責任論をも擁護するような意味での超個人主義者。そういう人に憧れていたわけだ。saebou先生も、彼女に憧れる側面があることを認めたうえで、自分の新自由主義者的な、個人主義者的な内なる声が聞こえてくると、それに「内なるマギー」と名前を付けて追い払うことを紹介しているので*1参考にさせていただきます。

 「内なるマギー」はしょっちゅう出てきます。そのくらいきつくてももっと努力しようよ!と人に言いそうになります。私はできたんだから、と。イライラします。できない人たちを置いて、私が勝てればいいじゃない、と思いそうになります。つい最近もありました。私は強くなりました。2013年に櫻井翔くんが演じた家族ゲームというドラマの吉本荒野が「強くなれ」と言ったから、ガンガン勉強して、ガンガン社会運動します。弱音を吐かずに、頑張ります。ちょっとしんどいとそれを他人にも強要しそうになる。でもそれは、私にあの今となっては恥ずかしい作文を書かせた「勝ってやるぜ!」という野望に満ち溢れた私です。野望があるのはいいけど、ちょっと待って、あなたこの歳になってまたあの作文を書くの?という話です。サフラジェットは超いい映画でした。メリル・ストリープの顔を、そっちにしてしまいましょう。エマ・ワトソンでもいいし。どうも、グリフィンドールの私です。

 恥ずかしい作文を晒したから、今日で内なるマギーとはおさらばです。大学4年間で学び、活動し、私はフェミニストになりました。シスターフッドを知りました。さようなら、私の内なるマギー!こんにちは、フェミニストの私。これからもよろしく。

 

 

【参考文献】

北村紗枝

さよなら、マギー~「内なる抑圧」の誘惑には、名前を付けて抵抗しよう - wezzy|ウェジー

河野真太郎「機嫌の悪い女たち、機嫌の悪い男たちポストフェミニズムにおける感情の取り締まり」現代思想2020年3月号フェミニズムの現在

菊池夏野「憧れと絶望に世界を引き裂くポストフェミニズム―「リーン・イン」・女性活躍・『さよなら、ミニスカート』-」早稲田文学2019年冬号