不道徳ならどこでも行ける『不道徳お母さん講座』
読みたかったけど後回しにしていた『不道徳お母さん講座』を読みました!
文章が純粋に面白くて読みながら何度もクスっとしてしまったので、絶対に笑ってはいけない環境では読むことをお勧めしない。
テストが終わってガラガラの図書館だから許されたものの、普段の図書室なら「なんだあいつニヤニヤしながら時々笑って」と怪しまれること間違いなしなので自宅で読むことをお勧めする。
こんな風に面白いのも、著者が幼いころから「不道徳な読書」を重ねてきたからだろう。それだけでも「不道徳」のパワーを思い知る。そう、学校で求められる「道徳」なんぞ予定調和の感動ワードを重ねたパズルに過ぎない。
と、いうことがよ~~~~~くよ~~~~~~~~くわかります、この本を読むと。
心のノートという道徳教材でいい子作文をした経験がある君も、読書感想文に「ぶっ殺す」と書き元ヤンの先生から「『ぶっ』は無くして『殺す』にしましょう」という謎の校閲を受けた経験がある私も、学校教育の中でいかに自分が「感動作文」「ありのままの子供らしい姿」を演出するのに慣れていたのかがわかる。
それに違和感を感じていた人ならなおさら「そ、そ、それな~~~」となるはず。
卒業式で定番の
「楽しかった~~」 \\ 運動会~~! //
的なアレの起源も、ブラックすぎると話題の組体操も、悪名高い2分の1成人式の「感動」推しも、感動共同体を生み出しカタルシスを集団で経験することで、自己と他者の境を曖昧にして、近代的「個人」を成立させまいとする力が働いていることを最後にはズバッと明らかにします。
そして他者のいない世界は、母と子の「愛」という閉じられた世界に「個人」を確立しなければならないしんどさから逃げ出しその世界に留まる「母性」レトリックによって可能になる。
サブタイトルにもあるように「私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか」という問いに答えることで、その「母性」神話が構築される過程を1章・2章と丁寧に追い、3章で組体操や卒業式のアレなどとつなげて学校教育における「感動」がいかに「個人」を育てない教育を生み出しているかを示します。
に、しても北原白秋がマザコンすぎてまじで引く.......。
あと、家族計画の歴史を見ていて母子手帳が戦中の政策の一環だったのを知ったときもビビったけど、国語の教科書に載ってるような有名な作品の著者ががっつり戦争プロパガンダつくってたり.....「お前もか」というキモチでいっぱいだよ....私は。
左右どっちも国語の教科書の内容選定ミスってるからな!!
「個人」というのは「個人主義」ということで私にとっては、おなじみのフレーズ。「個人」というのは、硬質な存在で規範創造的な自由を享受し、自身の権利を行使していく。政治参画する市民となって初めて「人」となる、ではないけれども、単に「なんでもしていい自由」を持っていて本音で話すのが個人ではない。
社会の一員としてそこに参画する自由を個人の尊厳と平等のもとに有し、あえてペルソナを被ることをして(本音ではない)行動と発言をする、自らを律し、立てる存在が個人である。*1
というような理解をするならば「やんちゃな男の子」として「セクハラ」が、欲望の表出としての「わんぱく主義」で許されるなんてもってのほか。また「本音」としての「ありのまま」を作文教育として書かせるのではなく、意見を構成し論述できるような能力を教育していくべきだろう。
(どっか...多分仲正先生の本だと思うけど「建前」の方がバラエティーが少なく「本音」こそ豊かで人間らしいみたいなのあるけどあれは絶対嘘、「本音」なんて「学校いきたくない」「働きたくない」みたいなみ~~~んなおんなじことでつまらない。って突っ込んでいてすごい面白かった気がする。)
村落共同体を出て自己形成しなければならなくなった近代的個人は、それはそれは不安であるが、不安に耐える「強い個人」、自ら律し立つことができる「個人」でなくちゃ。癒しをママンにもとめて抱っこ~~~~~を国家レベルでやるでない。
だいたいママンを、子供のことだけ考える聖なる自己犠牲キャラにしたのはどこのどいつだ!!?そういうことを考えろ~~~~~~~~~~
そうした自律した個人、わかり合えない個人間の話し合い、利害の調整が「政治」なのであって、そうした政治の先にこそ平和を見ようじゃないか、と。
みんなで感動して一つになってそのビューティフルハーモニーの中で「平和」を見るんじゃないくてネ...☆(またREIWAの話をしてしまった)
著者のメッセージを私はこんな風に受け取ったし、とても賛同します。
いい女の子は天国に行けるが、悪い女の子はどこにでも行けるという言葉があるらしい。
借りるなら、道徳的な子は天国にいけるかもしれないが、不道徳な子は...というか不道徳な母はどこにでも行ける、とも言えるだろう。
国の決めた道徳なんか、国の求める、教育の求める「感動」なんかクソくらえだ!
こんなこと言ってる私は「反社会勢力」でしょうか?(だって定義できないんだもんね☆*2
ちな、同じ著者の「女の子は本当にピンクが好きなのか」はめっちゃいい本です~~好きです~~~。
プリキュアが初代は白黒のスタイリッシュだったのに年々ゆるふわピンクに寄っていくのはなんやねん!と思ってる人はこの本一読の価値ありと思う。
プリキュアには、あとはキャロル・ギリガンの「もう一つの声」ね。正義の倫理ではなく、ケアの倫理、という風にプリキュアの闘いのプロセスを見れるんじゃないか....って話がプリキュアに逸れたけども、「女の子は本当にピンクが好きなのか」も読んでください。
トウダイという化け物?『彼女は頭が悪いから』
ずっと読みたかったが読まずにいた本を読んだ。
現在、性暴力の予防に関わり、そして過去には性感染症の予防啓発のためにコンドームを学内で配布していたところ「あいつらはスーフリだ」と指さされた私であるが、読まずになんとなく生活してきた。もしかしたら小説ということもあり、学術書よりも後回しにしていたところがあったかもしれない。
しかし、このインタビューで著者が述べるようにフィクションとは往々にしてまざまざとリアルを見せつけてくるものである....という至ってよくある感想を述べることになる。
性暴力が、社会構造や日常の差別の連続体の中で起きることが、淡々と加害者となる5人の生活を追うことで見えてくる。大きなもので言えば、ダージリンというサークルを出禁になった出来事。あの意味を理解できないまま話が進んでいく。あるいは、コンドームを使わないで性交を行ったのであろうことも「顔がきれいな」女性との別れ話の中で明かされている。客体化され、性欲の解消の先となる女性の表象。母親の家内労働の不可視化。
どれもこれも見おぼえのある差別。暴力。
その延長線に、5人の加害者の行動がある。
「トウダイセイ」という異質な存在、異様な化け物が犯す、馬鹿高いプライドの産物と「女子大」の学生との事件だと捉えてはいけない。化け物の影はそこら中にある。そしてその影を見ると、触れるとなんとなくそれを感じることはできるが、私はその差別を笑って見過ごしたり困ったように微笑んでいなす術をすでに身に着けていて、自分自身が傷つかないためにそれを無意識に行使する。
美咲が寝たふりをしたり、一生懸命お酒を飲んだりしたように。「どうせ」と唱えながら。それがその場を乗り切る策と信じて。
私はトウダイセイではない。
見事、第二志望のワセダに転がりこみ、駒場の門をくぐることが叶わなかったオンナである。性差別についてはなにかと評判の悪いトウダイであるので、あ~トウダイじゃなくて結果オーライかもな...と思うときもないではない。無論、美咲ならどっちだろうと「すご~い」の対象であろう。私が生きてきた世界はつばさの方に近い。つばさの感覚として、トウダイは違う、スーフリみたいな法は犯さないとつぶやく場面があるが、つばさの感覚でワセダをやっているのでその辺の「差」はわかる。ソウケイなんかとは違う。が、そんな私はたくさんの「トウダイ」を知っている気がする。この小説には見たことあるような景色と経験したことあった気がする痛みがチクチクとたくさん詰まっていて、うんうん唸りながら読むほかはない。私は美咲ではない。でも美咲だったかもしれないし、優香だったかもしれないし、、、、。
近所の人はトウダイやケイオーの性暴力の事件があるたびに、ワセダじゃなくてよかったわね、と私に言ってくる。どういう意味なのかよくわからない。そしてだいたい続けて「でも気を付けてね」と言う。これも謎だ。
大学の名前なんか関係ない。そこら中に私が落ちていたかもしれない穴がある。どう考えても穴を掘って暴力を振るおうって方が悪いのに、私は「気を付けてね」と言われる。もう嫌というほど気を付けている。
日常の中にある暴力。
もう一つ。あ、っと思ったのが、作中ちょくちょく「という『キャラ』だと認識したとつばさは裁判で証言する」というのが挟まれる。裁判で、美咲の過去の行動が問われていることを暗示する。
小説は時系列で進み、読者は美咲がどんな経歴を有するかを知った状態で暴行の場面にたどりつく。
でも、裁判でそれが問われる必要はあるのか?
暴行が日常の差別と連続体であることに触れたけど、しんどい頭で読み進めていくとこの物語の中の事件の流れが頭に入る。そして裁判も終わる。最後に校長先生が放った言葉がなんだったのか明らかになったときに、改めて殴られたような衝撃を受ける。
おそらく読者も、そして作中のママも、その言葉を予期していなかったからこそそこで、飲み会の流れではなく切り取られた行為の残虐さに唖然とする。
なぜこれが彼らには性暴力であると認識できないのか。そんな行為を「ついて行った方が悪い」などと言うことができるのか。
おそらく筆者は意図的に再度「何が行われたか」という事実の提示を、あの位置に持ってきたのだろう。そして、その再提示によって、「残虐さ」が際立つとはどういうことだろうか?
私は小説の流れに沿って読むことで、無意識に二次加害をしようとしていたのではないか。どうしてあんなにお酒を飲んだんだろう。つばさなんかさっさと振ればいいのに。なぜ....なぜ.....と思ってしまっていたのかもしれない。
だから再度提示されて、驚いてしまう。
驚くのは、少し、加害者の「言い分」を聞いていたからではないのか。
私は頭がいいから。
裁判制度の見直し、レイプシールド法を作りましょうね、という議論をここで始めることもできる。が、作品の感想に留まるなら、読後感の悪さは自分が、実は二次加害に加担していたかもしれないというところからきている。というよりはむしろ「私は頭がいいから」
トウダイという化け物が死ねば、オールオッケーではない。
トウダイが映しだす私たちの社会の差別構造、暴力を容認する社会。化け物はそこらじゅうにいて、というかむしろ私たち自身であり、そしてその化け物に食われてしまいそうなのもまた私である。
「みんな悪いね~」って話がしたいんじゃない。
だってあいつらは「東大卒」として生きていける。海外に行くお金も文化資本もある。いくらでも「再スタート」できるのがほとんどではないか。(5人の中にも地域や経済格差はある)
美咲は、家から出れる?働ける?大学に行ける?
美咲の人生はめちゃくちゃになって戻らない。
許せない。ありえない。
そういう許せない信じられないことを無くすためには、東大悪い、じゃぜんっぜん物足りないって話。
卒論参考文献フェミニズム編
卒論に使った参考文献を見てくれ。面白かったんだ。
そして読んでくれ。という気持ちでいっぱいなんだ.......!!!
卒論では妊娠中絶を扱い、リプロダクティブ・ライツにつながるような議論をしました。「胎児の可視化」「胎児の人間化」という視点から法律論を検討しました。
人工妊娠中絶や「胎児の人間化」に関心がある人はあたってみてください。
まずはこの本。「胎児の人間化」「可視化」とはなんぞや?それがどう妊娠中絶の議論と関わるんだ??という人はこれを読んで欲しい。
ちなみに私はめちゃくちゃ引用した。いま私のパソコンは「塚原注」というのが秒で変換予測で出てくる。
そして、荻野美穂本にもめちゃお世話になった!
今回は日本における中絶の議論を取り扱ったので、この本が役に立ちました。
さらに言うと後ろの参考文献リストが詳細でほんとサイコーです....。
なお、Roe v. Wadeのようなアメリカの議論を法的に追いかける前にアメリカ社会や流れを概観するのにとてもよかったのがこちら。
歴史系だとこれも。
「胎児の可視化」「胎児の人間化」をキーワードに、公的議論の中でいかに中絶の言説が構築されていったのかを検証したのが、「母性愛という制度」
私は今回70年代初頭の優生保護法改悪阻止運動における女性運動(ウーマン・リブ)の言説に着目したので、70年代の言説をまずは大づかみにする上でも学びが多かった。
なお、ここで分析しているような言説を検証するのに朝日新聞の「ゆれる優生保護法」っていう特集を読みました。
剣持加津夫「99/100消えゆく胎児との対話」は批判的に読みました。「中絶=殺人」という言説が見られます。
印象的だったのは、手術を受ける女性を艶めかしく形容している箇所があって、な.....なるほど......このまなざしが物語っているものがあるよな...と。思いました。このパンフレットは国立国会図書館でしか見られないはず。(結構読んでてしんどいのと批判的に読むようなものだと思います)
70年代前半のウーマン・リブがどんな主張をしていたのか知るのにはこちら。
図鑑のように大きな本で、中には当時のビラがびっしり収録されています。忘れかけていたラディカルさを思い出させてくれる熱い文章や、30年以上経つのに共感してしまう切実な声、歴史を感じる新左翼っぽい言葉使い。
私的にはなにかとエンパワーしてくれるパワースポット的な本。わたしたちの(と言っていいのかな)運動はどこから来たのか知る上でもいいかも。
リブはどう位置づけられたのか、られるのか。
ビラも織り交ぜつつ、手ごろで読みやすいサイズなのがこっち。
ちな、妊娠中絶は母性にも関わるのでこっちも読みました。
直接引用しなかったけど、リブでいうとこの本も好き。
「胎児の人間化」といえばこれ。
胚が「生命」として構築され神聖で道徳を有する主体として描出されていく過程を検証しています。目からウロコというか....塚原久美「中絶技術とジェンダー」で言っているように、自分が読んできた理科の教科書とかもまさしく女性を「胎児」の「入れ物」にして背景へと押しやっていたわけなので、この本を読んで自分の見方を問い直しました。
あーーーー一般教養で聞いた話の中になんかこう...近代医学との関係で女性が客体化されていく過程をなんかおもしろそうに先生が話してたはずなんだけど......えーーーっと.....でひねり出したのがこの本。
の、前にこれなんだと思います?
気になる人っていうかこれに隠された歴史と謎を知りたい人は全力で↓を読んでください。
妊娠経験をインタビューから浮彫にする本。
法的議論が女性の経験と乖離しているのではないか?というところから出発したので、こうした資料はとても参考になりました。
なかでも「お腹のなかのものを生命と認識したのはいつですか?」という質問項目があり、興味深い数字でした。
後半はインタビューが読み物的にまとめられていてそれぞれの人生の中の「妊娠」を語っています。
「産まれんことには『赤ちゃん』っていわん」という感覚をインタビューから日本においてもある時期までは存在したことを明らかにした柘植先生の論文が入っているこの本も面白かった。
中絶の経験をインタビューしながら、既存の発達心理学は男性中心主義であったのではないか?と告発し、その後法学を含む様々な学問分野に影響を与えたキャロル・ギリガンの「もうひとつの声」。
なおキャサリン・マッキノンがこの本のことを批判しているので、feminism unmodified邦訳「フェミニズムと表現の自由」の中の一論文と合わせて読むと面白いです。
脈絡なく紹介してるのですが....。
めちゃくちゃ大事な本をここまで忘れていた.....!!!
「生殖技術とジェンダー」に収録されている井上達夫氏と加藤秀一氏の論争は、当時もいろんな反響もあったようですし、また後に引用されているのでぜひ一読を。
私がこの論争でおもしろいなと思うのは、二人がかみ合っていないこと。
私はかみ合っていないと思います。井上氏が「胎児が生命であることを前提としたアプローチ」であるのに対し、加藤氏はそうではない。「胎児が女性にとって両義的存在であることをポジティブに認め」「その道徳的存在者性の承認」において女性が特権的地位にあるという。
この記事の前半で「胎児が生命として構築され~」みたいなこと言って、「ん?胎児は生命なのでは???」という感覚にたぶん私もちょっと前にはなっていたのではないかな...。そのくらいその直観は強固だということを、井上氏が証明してしまっているのではないか...という噛み合わなさ。ただそれぞれ読み応えあるので、ぜひご一読を。
この論争を検証しているのが『産む産まないは女の権利か?』です。
あああああああ~~~リベラルな議論で「なんか違うな....あ...いや、そう、女性の権利....そうなんだけど......」みたいなやつの理由がわかったぁぁぁああああああ~~~~~~~~~~(絶叫)ってなります。
リプロダクティブ・ライツにつながるような議論をしましたが、国際法上のリプロダクティブ・ライツ概念についてまとまっているのはこの本。
国際法とかの流れをがーーーっと知るのに使えます。
直接引用はしなかったけど、生命倫理はこんな風に議論をしてきたのね、ふむふむと読めるのが以下。
特にジュディス・トムソンの議論は有名で批判的にも好意的にもよく引用されるのでここで読んでおくと他の本を読みやすくなります。
ドウォーキンの「挫折」の議論もそこそこ面白かった。法律界隈の人は、彼の法概念論について学びながら妊娠中絶について考えつつ、アメリカのオリジナリズムとの対抗という文脈も読めて面白いので法学の人はぜひ。
これも結局卒論には使えなかったんだけど、面白いから読んでほしいので。
以上が、卒論参考文献の一部でした。
あとは本じゃなくてこまごました論文を読んだり、雑誌記事だったり....。メインは法律論なのでこんなもんです。
ベスト3を選ぶなら、塚原久美「中絶技術とリプロダクティブ・ライツ」、江原由美子編「生殖技術とジェンダー」、柘植あづみ他編「妊娠―あなたの妊娠と出生前検査の結果を教えてください」です。
なんらかの読書案内になれば幸いです。
一緒に戸惑う『社会運動の戸惑い』
読みました。
お友達におすすめされて読んだのですが、一緒に戸惑ってしまうという。
つまり私は、大学生になってから既存のフェミニズム運動とのかかわりを持ち、活動をするようになったのですが、この本で指摘されているようなゼロ年代フェミニズムの反省点を良く知らないまま合流し、図らずも加担していたのではないか、という気持ちになりました。
一緒に戸惑う。
やはり何が過去においてあったのかを良く知らないでやるのは、「だって私はあのとき大学二年生だったもの」という言い訳を招くのでよくないなぁと思いつつ、一方で「安全な」お勉強に留まるのもよくない。権力批判の目線、体制批判の姿勢、フェミニズムは学ぶものではなくて実践するものだということ。
特に興味深かったのは三章と六章。
三章は「千葉県に男女共同参画条例がない理由」
千葉には男女共同参画条例がないのは知っていて、「バックラッシュでつぶれたんでしょ~~」と思っていたけど、詳細は知らなかった(知ろうともしなかった)ので、そんなんで千葉のヤンキーは名乗れないな...と反省しました。
私の認知には、もうすでに(フェミニスト歴3年にして)「バックラッシュ派」とひとくくりにして、それらを「日本会議」と同一視し、「大量の中央からの動員」によって「悪者が千葉の男女共同参画条例を葬った」という認知ができていたのです。
実際には、千葉の条例は、保守分裂を引き起こし、保守側にとっても苦い思い出となっていることが詳細に検討されています。
対案が自民党案として出されるも、それすらも成立しなかった背景には保守分裂があったと。(そこに第二章で述べられている日本時事評論が関わってくる)
そもそも地元の歴史を知らないというか、そういう詰めの甘さを認識したのが我が地元千葉県では、ただ男女共同参画条例がないだけではなく、「日本一の男女共同参画条例を作る!」という動きがあり、しかもフェミニストが知事だったことがあるということすら知らなかった。
私が政治に興味を持ったのは、小学校6年生の時。嵐ファンになって櫻井翔が中継する2009年夏の衆議院総選挙(そう民主党への政権交代が起きたあの選挙)を見た時でした。
2009年は堂本暁子氏が県知事選への不出馬を表明して、自民党推薦の現職森田健作氏が知事になった年。そうです私の千葉の知事のイメージは森田健作しかないのです。
あの県庁舎の周りに宣伝カーが来てやんややんややっているなんて、どんな景色だろう...?いとも簡単に歴史は忘れ去られ、そしてきっと繰り返してしまうのでしょう。
第六章は「箱モノ設置主義と男女共同参画」と題しヌエックをめぐる行政について書かれています。
ヌエックとは国立女性教育会館のこと。
(NWEC・ヌエック)男女共同参画の推進機関 |国立女性教育会館
実は私は過去に二回ほどヌエックに赴き、「若者」「ユース」という位置づけで自分の活動を話した経験があり、ヌエックで行われている事業は他人ごとではない...ということでガン読みしました。
死ぬほど暇ならぜひ行ってほしいんですが、クソ遠いです。
「しゅんDちゃん、お話してくれなーい?」と言われると「はい~♡」と返事をしてしまうのですが、いつも当日の朝後悔するほど遠い。私がオタ活以外であんな遠くまで行くのはヌエックぐらいです。
が、しかしアホ立派なのです。とにかく立派。
で、今日まで「きっとこれは過去のフェミニストたちが運動の末に手に入れた努力の結晶みたいな建物なんだわ....すごいわ....感動しちゃうわ...」と勝手に思い込んでいたのですが、全然そうじゃなくて、お役所の予算ゲットと、むしろ草の根団体の管理と囲い込みのための「箱モノ」という出自を持つことを知り......よく調べもせずに盛り上がってごめんな!と何かに謝りました(何に?)
実際にあそこには日本中の男女共同参画センターの職員や教員が集まり、そういう人たちは都内でフツーに活動していたら会えないので、結構おもしろくて行っちゃうんですが....。ん~~~そんなに役員報酬出てるんか~~い!!!
この本は、全体的に行政フェミニズム、その中央集権的な、また権力的な、啓発的な在り方に賛同したフェミニストを批判的に検証し、その視点から「バックラッシュ」の中身を明らかにしようとするとてもいい本です。勉強になりました。
私は「大学」という権威と組んで、実際に活動をすることが多く、「啓発」という言葉をよく耳にする環境や不透明な動きの中で漸進的な改革を具体的な人間関係の中でやっています。それは非関係者からみればまさしく行政フェミニズムのように中身が見えなかったり、ざっくりとしたキャッチコピーを掲げるだけで中身を伴わなかったり、「フェミニストの乗っ取り」に見える構図を繰り返していなかっただろうか?と自問しながら読みました。
条例という足場を作れば、箱モノを作れば、巻き返されないはずだ!という思い。
「あいつらはわかっていない」という態度。
そういうのはないとは言い切れないんじゃないか。
かつて学生運動にはダメなところもたくさんあったけど、大学当局を「権威」とみなし批判する姿勢は、忘れちゃ絶対だめだと思いました。
バックラッシュとか、自分たちが子供のころのフェミ界隈に何が起こっていたのかなんとなく知りたい人はぜひ読んでください。