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大学院生のメモ置き場。ふぇみ的な書き散らしなど。

その話そんな昔からやってんの?『自分ひとりの部屋』

 

フェミニズムの古典に数えられるヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』を読みました。

文庫だし、翻訳が読みやすいので、「古典....」とビビらずにサクッと読めるのでかなりオススメです。一回読めば「ヴァージニア・ウルフ読みました!」って顔できるし。

 

 

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

 

 

この本は1929年に書かれたもので、大体90年前に書かれた本。

にも拘わらず、「ああ~~~わかるぅ(わかる)」が多くて、さいごの結びの言葉にもグッと来るのですが、逆に言えば90年経ったのに未だこの古典が力を持つというところに「フェミニズム」という女性が構造的に抑圧されているという問題が解決していないことを見出すならば、一世紀経っても変わらないことに絶望せずにはいられない。

 

 

もはや笑ってしまったのがここ。

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女性について書かれた書物が多いだけでなく、その著者が「女性でないということ以外何の資格もない男性」が女性について論じていることにドン引きするという場面が出てくる。(平凡社のやつでp.49)

 

あれっ、これ最近見たな...と。

ちょうどその時は「私たちのフェミニズム」と題した記事が、第一回に聞いた人のチョイスあるいはその内容が炎上している最中で、当該記事も特に何か資格を持っている人ではなく「ふつうの人」が(それが記事の意図だったわけですが)女性の問題である(?)「フェミニズム」について語る、という構図であり、その中でインタビュイーの方は自身の母親を参照しながら「女性」とはどのような存在か、例えば専業主婦が楽である~みたいなことを例示しながら話を進めていて、「女性でないということがい何の資格もない男性」が「女性」について論じるという構図がある。

 

 

何が新企画じゃ、何が新しいんじゃボケェ

約100年前から辟易しとるんじゃこちとらァ!!!

 

と文庫を握りしめながら叫びたくなりました。

いやはやその記事の問題点はそこだけではないにしろ。というか『自分ひとりの部屋』ではそこはあんまり大きな論点ではないのですが、読んでた時はあまりにタイムリーすぎてキレ散らかしてしまった、まじで。

 

 

 

 

ということで約100年という時を意識しながら読み進めた。

私は大学に通っていて、堂々と道の真ん中を歩いて学校に入るし、図書館に入れなかったのは学生証を忘れたときくらいで「ご婦人は...」と言われることもない。

いまこのブログを私一人の部屋から書いている。実家なので邪魔が入ることもある。500ポンドを手にしていないけど、まぁ当時に比べたら500ポンド並みの収入を得る女性は増えただろう、がしかし、年収500万を手に入れながら自由な創作活動ができる女性は一体今の社会にどれだけいるだろう?

本当の意味での、思索を巡らせる「自分ひとりの部屋」を手に入れた女性はどれだけいるだろう?

私は大学受験の時に「女の子はひとり暮らしさせられない」という条件を課せられて第一志望の大学を受験すらできなかった。

世の中。密室育児で子供と二人の時間が長く「自分ひとりの部屋」を望むべくもない人もたくさんいるだろう。

私の実家。父の部屋は存在するが、母の部屋はない。昔から母が怒ると「ママには部屋がないのにどうして子供たちは自分の子供部屋を散らかすの!?」というスタイルで怒ってきた。機嫌がいいと「ママがパパにたくさんお願いしてこだわって作った自慢のキッチン」「ママの身長に合わせて高さを調整した食器棚」の話を聞かせてくれた。

だから小さいころ、声には出さなかったが不思議だった。「どうしてママはパパと同じようにお部屋を持ってないの?キッチンはみんなのものでしょ?」と。

 

 

ママにはキッチンがあり、部屋はない。

ママには部屋はいらない設定なのだろう。

 

 

なお、父の部屋は書斎と呼ばれている。父の書斎の一角には母の本を置くスペースがあったが、最近では父の本が増えて母の本は別の場所に移動させられてしまった。

母の本はほとんどすべてが料理の本だった。月刊の料理の本。お気に入りの数冊が、キッチンの入り口に移動したのだった。

 

 

 

私の母は、自分ひとりの部屋を持たない。

 

私は、自分ひとりの部屋を持てるだろうか。500万を稼ぎ、自分ひとりの部屋を持ち、創作を、思索をできるようになりたい。

それは2020年を生きる若い女性である私にとっても、割と、切実な願いである。

 

 

 

 

『自分ひとりの部屋』の中では、シェイクスピアに彼と同じだけ才能のある妹がいたら、、、、彼女は高名になることなどなく、死んでしまうだろうという例え話が出てくる。

結びの言葉においてウルフは

「一語も書かずに十字路に埋葬されたこの詩人は、いまなお生きています。みなさんの内部に、私の内部に、食器を洗い子供を寝かしつけるためにこの場にいない、他の数多くの女性の内部に、生きています。とにかく彼女は生きています。というのも、優れた詩人というのは死なないのです。いつまでも現前し続け、チャンスを得て生身の人間となり、私たちとともに歩むときを待っています。

私が思うに、みなさんの力で彼女にこのチャンスを与えることが現在可能になりつつあります。」

 

これに続けて、ここまでの記述に対応するように「あと一世紀ほど生きて~なら」と条件節を続けます。

自分ひとりの部屋を持ったら...。年収500ポンドを持ったら...。

きっと彼女は甦る。

 

「彼女のために私たちが仕事をすれば、彼女はきっと来るでしょう。」

 

 

 

さて、約一世紀が経とうとしていますが、相変わらずシェイクスピアの妹の比喩は力を失っていない。私は自分ひとりの部屋を、500ポンドを、得られるのか?

でも最初に書いたように私は図書館にアクセスできるという点では当時の彼女とは違う。そういう変化も、この90年の間、無数の女性たちが積み重ねた仕事により、シェイクスピアの妹が何度も蘇らせた、蘇らせようと努力したことが生み出したものだろう。

ならば私も、書き、学び続けるしかない。私はきっと必ず「書く」だろう、と誓う。そういう仕事をするだろう、と。

 

 

 

 

 

 

ヴァージニア・ウルフさん、90年後の世界はこんな世界です。

どうですか?

 

 

100年後の誰かさん。

聞こえますか?はてなブログのサービスが終了しているか、笑

『自分ひとりの部屋』を持っていますか?500ポンドを稼いでいますか。

古典というものは力を持つものなので、きっと100年後も『自分ひとりの部屋』は読まれていることでしょう。

このブログはきっと読まれていないでしょう。

ただただ私は、100年後のあなた方が「なんだか古臭い本でした」と同じ本を読んで、どこかに(100年後はどんなものが流行っているでしょうか)読書メモを書き残すことを願っています。

そのために今の私は、シェイクスピアの妹を蘇らせるための努力を惜しまないこととしますね。

 

 

 

 

つーか私がやるか100年後(おっと...?)

 

\\ その話、やっと終わったよ ///