watasi-no-namae

大学院生のメモ置き場。ふぇみ的な書き散らしなど。

私の身体、私が決める。これは人権だ。

 

なんだかとってもここに書くのはお久しぶり。

 

こんにちは。

昨日、生まれて初めて路上でマイクを持ちました。ラップバトルに参加したのではなく、来る参院選福島みずほさんの応援市民スピーカーをひょんなことからすることになったのです。

ということで、ドキドキしながら原稿を作り、マイクを持ちました。

 

めちゃくちゃ表現の自由を感じた.....!

 

表現の自由はとても大切な人権で、簡単に侵害してはならない、経済的自由権よりも高いレベルの保護を受けるとして「二重の基準論」なんていうのもあったりするくらいなんですが、なぜそんなに保護しなければならないのか?は諸説あります。

自己実現と自己統治、なんて学部一年では覚えたりするのですが、その自己統治の方は、要するに民主主義に資するからということです。

もし国会が経済的自由を侵害する法律を作ったら、市民は表現の自由を行使して「あの法律は間違っている!」と声を挙げることで法律を改正できる。しかし、表現の自由そのものが規制されてしまうと民主主義が成り立たなくなる。そういう論理です。

なので、政治的言論というのは表現の自由の一丁目一番地という感じで、それを駅前の広場?でやるなんて!とっても表現の自由だわ!

駅って不特定多数の人が通るじゃないですか。私の声を聴きたくない人も聞かざるを得ない。でも、民主主義を形成するにあたっては、たくさん人の集まる場所で声を挙げて議論をしていくことが大事。だから、公園とか広場とかはパブリックフォーラムと呼ばれていて、「ここは誰々が管理権を持っている場所だから出ていけ」というのではなく、表現の自由のための空間として保護しましょうって話があるのです。そんなパブリックフォーラム論の源泉となったアメリカの判例では、「記憶にないほど昔から~」というフレーズで、公的な空間のことを形容するのですが、まさにこうやって駅や広場でマイクを持ち、ミカン箱の上で声を出してきた。そういう古の記憶?の中で表現の自由ってば行使されてきたのかしら!そして迫害されそうになったら戦って、獲得してきたんだわ!そんな歴史の延長線上にいるのね!!と非常にナイーブな歴史観で一日経った今はちょっと笑っちゃうんですが、感動していたわけです。帰りの電車もいつもは座ると寝ちゃうのですが、興奮で目がガン開いていました。

そんなこんなで、スピーチをしてまいりました。

 

そのスピーチ原稿の一部を、急遽公開します。応援演説なので必然的に党派性が強いですが、悪しからず。

「私の身体、私が決める」ということについてです。

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見ての通り、私は小さな女です。

見てわかりませんが、私はレズビアンです。

私は、その二つの点についてマイノリティです。そして、福島みずほさんを党首とする社民党がマイノリティの声を聴いてくれると思って、いまみずほさんを応援するスピーチをしています。

 

ある日テレビを見ていて、母が「昔は堕胎罪なんてあったのね」と言いました。私は「お母さん、今もあるよ」と。

今も、堕胎罪はあります。自分の身体を自分で決めることが犯罪です。中絶は母体保護法によって「許可」されているにすぎません。

私の身体は私が決める。これはウーマンリブの女性たちのスローガンです。

これは人権です。基本的な権利です。

ウーマンリブは、1970年代とかの話です。私はこれ、大学の授業で歴史として習いましたが、でも「歴史」だなんて思えませんでした。今の問題です。今もなお、日本では、私の身体のことは私が決めるという基本的な人権が成立していません。

昨年、経口中絶薬の承認申請がなされました。これについて先日の国会で福島みずほさんが質問をしました。薬を飲むのに、配偶者の同意が必要か、と。

これに政府の側は、必要ですと言いました。

私の身体は私が決める、なのに配偶者の同意が必要なんておかしいです。

 

でも、法律にそう書いてあるのだからお役人だってそう答えるしかないのかもしれません。今の堕胎罪を適用しないようにする母体保護法は、配偶者の同意を必要としています。

薬を用いても堕胎罪の構成要件に該当しますから、そりゃあお役人さんはそう答えるしかないですよね。法律に従ってお仕事をするのが、行政府です。行政が法律に従わないことは大問題ですから。

 

でも、法律を作り、変えるのが国会です。

選挙とは、法律を作り、変える国会に送り出す議員を決める機会です。

社民党の重点政策では、堕胎罪・母体保護法を見直し、女性の包括的健康に関する法律を作成するとあります。ぜひ実行していただきたい!

私の身体は私が決める。産む・産まないは私が決める。

 

少子化対策」として「出産育児一時金の引き上げ」が議論に上ります。

もちろん、出産にかかる費用は大きい額ですから公的に負担していただきたい。

しかし、「少子化対策」ってなんですか。私は、私たちは、国のために産むんじゃない。私と、私の近い人たちがそうしたいと決めたからだ。

だとすれば、産まないこともまた私の決定として尊重してほしい。

社民党の政策は、妊娠出産そして中絶も、保険適用するとあります。

 

一人ひとりの権利が尊重された先に、一人ひとりの「私が決める」の尊重の先に、「産める社会、産みたい社会」があるのではないでしょうか。

私は、権利論のない「少子化対策」を心配しています。

「私の身体、私が決める」そういう基本的な人権を理解し、産む/産まないを支持する社民党を、福島みずほさんを支持します。

 

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何人かの友人も来てくれましたが、それに加えて通りすがりの方が足を止めてくださいました。「私の身体、私が決める」とか、「私の決定を保険適用にしろ。産む産まないも私の決定だ」とかのあたりで止まってくれる人が増えて、私は嬉しかったです。

こうやって誰かの言葉が誰かの耳に届く。すげ~表現の自由っぽ~と思いました。ナイーブですが。

とにかく興奮していたのです。とにかく感動していたのです。私の声に、力があるように思えて。

 

 

夜11時を過ぎるまでは、本当に気分がよかった。すっきりしていた。

 

 

さて、米国では昨晩、Roe v. Wadeという妊娠を終了するか否かを決定する権利は基本的な権利であると認めた(その後だいぶ修正されたけど、その核心部分は先例としての価値を持ち続けているとされてきた)判決が覆りました。

5月の頭にその判決の草稿が流出するという未曽有の事態が発生し、通常のスケジュールで判決が出るのか...本当にあの通りの判決になるのかと言われてきましたが、予想通りの6月末に、ほとんどあの流出原稿に似た形での判決が下されました。

アカデミアでは、昨年の秋から今年の6月には覆る線が濃厚だろうと言われ、リークがあったことでその線はほぼ確定となり、予測していたこととはいえ、んんんんぎゃああああああああああああすごいショックだったああああああ(号泣)

 

昨日の夜からずっといろんなテレビ見てますが、ペロシがもう震えながらコメントしてるのが、ダイレクトに怒りが伝わってきてもうなんかしんど....みたいなさぁ。

 

ということで、なんだか急にこのブログって場所があったなぁと思いだして書き始めたのです。たいした情報はないですが。何か訳すなどできたらやりたいと思っていますが....。

 

言いたいことは、

私の身体、私が決める。これは人権だ。

 

そういうことです。

 

そして、冒頭のスピーチ原稿にあったように、日本だって対岸の火事ではないということです。人の身体を道具として使おうとすること、活躍や生産を望むこと、おかしいです。私は、私の人生を生きるために生まれてきた。

 

 

たとえ、どっかの国の最高裁が、そんな判断は間違っていたんだ、と言ったとしても。

 

 

 

冒頭で、「二重の基準」やら「パブリックフォーラム」やら言っていたの、アメリカの議論が日本に輸入されたものですし。Roe v. Wadeも国内外で理論的な弱さを指摘されてきましたが、それでもたくさんの、無数の研究が紹介し、分析してきました。1973年というタイミングで、「権利」だと認めたことは、画期的なことだった。

昨晩のニュースでも言われていましたが、米国最高裁の権威の失墜の始まりです。まぁ、あの国の最高裁の権威は何回も失墜しては復活しての繰り返しなのですが。失墜のターンに入ったでしょう。

だからちょっと、なんかね、ほんとう、スピーチのあとの興奮を返してくれや....みたいな気持ちもちょっとあります。

ま、そんなことはどうでもよい。

 

とにかく何があっても口を酸っぱくして

「私の身体、私が決める。これは権利だ。」と言っていく必要があると思います。

 

 

 

 

 

婦人科の「性経験の有無」って問診なんなん?~初めての婦人科体験記~

 

えーーっと、タイトル通りの話をします。

 

先日、初めて婦人科に行きました。初潮からずーーーーーーっと生理不順だしめちゃお腹痛いのですが母親の「若いのにあんまり婦人科に行くとよからぬことだと思われる」というバチバチの偏見に阻止されて全然行けなかった。今回は、過去最長ロングスパンで生理が来なくて、友達に「一回婦人科行けば?」と言われたので「いいチャンス!」と思って(年齢も上がったし)レッツゴーすることにした。母親もしぶしぶ了承してくれたので、一人で歩いて地元の婦人科へ行った。いざ、初めての婦人科。

 

 

 

 

 

 

問診票記入

 

初潮の年齢とか妊娠経験の有無とかをサクサク記入していくと「性経験(SEX)の有無」という欄があり「Yes・No」解答だった。

そこで困った。

私は女としかセックスをしたことがない。

そして、この問いは一体何を聞きたいのだろうか.....と。

(そう!!!!私は「母親の偏見に打ち勝って婦人科に行く!!!」ということが目的化していて半ばノリノリのイケイケゴーゴーで病院に来たため事前に「婦人科 何される」「婦人科 恥ずかしい」などで検索していなかったのだ!!!!)(重大なミス!!!)
(友人は「生理来なくて病院行ったら薬貰って生理を起こした」とだけ言っていたので、私はお医者さんに生理が来ないです!って言ったらアレコレ聞かれてそのまま問診であっさり薬がもらえるもんだと勘違いしてたのだ!!!)

 

セックス=ペニスをヴァギナに入れたことがある、だとしたらNO

子宮頸がんはペニスにいる菌?が原因だから異性間の性交経験者しかならないらしい...ということを耳にしていたので、子宮頸がん系のことを聞きたいならNOということになる。

妊娠可能性という意味でもNO。

 

 

セックス=膣に何かを突っ込んだことがある、だとしたら私の場合はYES

「何か」のサイズにもよるので正直Yes・Noの問いだと答え辛いな......と思いつつ、まぁ....まぁ....どちらかといえばYESだな、、、などと思いを巡らす。

 

セックス=粘膜間の接触可能性がある、ならYes

性感染症には同性異性問わずなるのでその意味ならYESになる....。

 

 

んんんんんんんーーーと頭を悩ませた結果、相対的にはYESが多そうだったのでYESの方に〇をつけることにした。備考などに書こうとも思えなかった。(逆に赤の他人だし、正確な医療のためには記入した方が...とも思ったが偏見を持たれて「エイズですか?」みたいな超古典差別に合うのも嫌だなーと思ったのが大きい)

 

 

まぁあと「なかったこと」にしたくなかったという部分もある。

とにかくNOには〇をつけなかった。

 

 

 

 

診察、例の椅子、超音波

 

ほいほいと自分の番が来て、優しくいろいろ聞いてくれる女性のお医者さんに生理不順についてお話をした。そんでじゃあ診察しますね~~と言われて、例の産婦人科あるあるの開脚椅子が登場。下着を脱ぐように指示されて「アッ、、そうだよねお話しただけで薬くれないよね」と重大なことに気づく私。(遅い)

症状や生理のメカニズムについての説明はされていたが、どんな診察をされるのかは聞かされていなかった。膣チェック的なことかな~と思って座る。

 

ぐいーーんと動いて行ってあられもないポーズになる。

「近代医療における女性の客体化じゃーーーーーん!!!」(興奮)

 

「進研ゼミでやったやつだ!」と盛り上がってしまう私。お産とは違うけど、めちゃくちゃモノ的な感じでお医者さんが診察しやすいようにぐいっと横たわって、私のヴァギナという一部分だけを見てる...見てるぞ.....と。

『お産椅子への旅』という本で座るタイプだったお産椅子がだんだん横たわり体制になっていくというモノの変化を取り扱いつつ、近代の医療が成立すると同時に女性の身体の使い方が自ら産むから「産まされる」ような体制へと変化していくのを追う本なのでぜひみなさんも....。

 

お産椅子への旅―ものと身体の歴史人類学

お産椅子への旅―ものと身体の歴史人類学

 

 

 

そして

「じゃあ超音波で子宮と卵巣見ていきますね~」と言われた瞬間には膣に何かが差し込まれる....(あああああこれでセックス聞かれてたんか~~)(納得)(遅い)

 

フツーにやや痛かったので「あっ...いた...」と言ったら、今度はぐいっと肛門の方に違和感を感じて特になんの事前通告もなしに気が付けば肛門側から超音波当てられてた。(特に何も言われなさすぎてややびっくりしたが頭の中は「案外すんなり入るもんやな...」という妙な感慨でいっぱいだった)

(帰宅後ググってみると性交経験がないと肛門というパターンもあるらしい。いずれにせよ、痛がったのでなんとなくそうなったのだと思う)

 

いや、説明してくれや。

 

いくら私がノリノリで婦人科に行き、事前の検索が甘かったからと言って、なんとなく膣に突っ込まれてました....ってなんやねんそれ、と。

 

たとえば妊娠経験の文脈では、中絶について文献を漁っていると、超音波による胎児の可視化が胎児の人間化につながるというので超音波検査ってめちゃくちゃインフォームドコンセント必要というのは読んでいたし、超音波検査って日本ではメジャーだから妊娠したら当然やるものだって認識かもしれないけど、それだけで出生前検査なのでやっぱりそこでもインフォームドコンセント必要、、、なのに気が付いたらとんとん拍子で超音波検査してました~、みたいな本を読んでたんですよ。

(文脈は違うけど)自分も気が付いたら超音波検査してた~テヘペロ

 

 

 

 

 どさくさで本を紹介するスタイル

 

 

 

そして深まる疑問

 

 

あのサイズの器具なら別に性交経験なくてもタンポン的な感じで入るんじゃ....?

いやむしろ性交経験があっても突然器具入れられたら痛いのでは?

 

一回セックスしたからって膣がガバガバになるわけじゃないし、かといって性交経験がなくても「処女膜」はお前の心の中にしかない(ひだみたいなのがぐるっとついてるだけ)だから入るもんは入るし.......えっ、あの問いはなんだったの???

 

 

っていうか、経腟性交の経験あってもアレ入れるの嫌な人は嫌じゃん???

なくても(オナニーしてる等々含めて)OKな人はおっけーじゃん????

あとセックスの定義をはっきりさせてくれ頼む....。

 

「膣に器具を入れて診察してもよい・わるい・場合による」

 

とかいう問いじゃダメなんだろうか.......。

そしたら「あーこういうことされんのね」ってのもわかるし、自分が痛いタイプかとか(いや医者の腕もあるのかもだけど)判断できるんじゃ....。

 

性感染症については別途質問して。

 

 

 

 

 

後日談

 

いろいろあって母親に「下からの」超音波検査を受けたことがバレた。母親は私が未経験だと思っていたので、顔を真っ赤にして怒り出した。「なんてことをお前はやったんだ」と私に対して怒っていたし、病院に対しても殴り込みそうな勢いだったので、私はしぶしぶ性経験がある方に〇をした旨を話さざるを得なくなった。

母親はタンポンを買うことさえ拒否するくらい処女膜信仰がある人で、たぶんそれに怒ってたんだと思う。その場では(もともとカミングアウトしていないので)異性愛の彼氏がいたことのある娘としてまた新たな嘘を増やすはめになった。

性交の有無が器具の挿入の有無に直結するなら、医療の側も「処女」的なものに幻想を抱いてないか....と混乱する母を横目に思ったりもした。まぁたぶん一般的に言って性行為の経験がある程度痛みとかと比例するってことはあるんだろうけど(その辺ほんとはどうなんだろう???専門家ではないので疑問は募るばかり)

あるいは世の中が「処女」に価値を見出しまくってるのでそこに配慮した問診なのかもしれない....真相は謎。(誰かわかる人教えてね)

 

 

あんまり説明はなかったけど、いい匂いのするアロマ?が焚いてあって、薄ピンク調のフェミニンな、Francfrancの雑貨とかローラーシュレーのラグとかが敷いてあるオシャレなクリニックだった。待合室の動線も工夫してあって、患者同士の目が合いにくいように設計されていたし、名前も呼ばないで「〇〇番さま~!」と呼ばれる配慮のしようだった。こりゃあトランス男性は入りにくいな、と納得しつつ、私のようなフェミニンなものに抵抗のないシス女には大変利用しやすい空間だったのでその点には個人的にめちゃ満足してる。

 

 

 

ざっとググってみると「婦人科 処女」みたいなのは結構ヒットするけど「婦人科 女としかセックスしたことない」みたいなのはあんまりなさそうなので赤裸々に書いてみましたとさ。

 

 

 

 

 

こんにちは、フェミニストの私。さようなら、私の内なるマギー!

 

国際女性デーということで、自分の話を少し。

 

 

部屋の掃除をしていたら、とんでもないものを見つけた。

高校三年生の時の文集、「常識を疑う」というテーマで高校生が思い思いの小論文を書いている。そして私は「シンデレラと女子力とフェミニズム」というタイトルの小論文を書き、見事クラス内で選抜され、年度末の文集に載ったのだった。

 

その内容がひどい。

 

短いので恥を忍んで、全文引用する。

「シンデレラと女子力とフェミニズム

 

 もしもシンデレラが継母のいじめに耐えかねて「ふざけるなババア」と反旗を翻し、自由を手にする物語だったら。きっとシンデレラは女性の憧れにはならなかっただろう。その手のプリンセスは皆、美しいだけでなく健気でいじらしく、受け身だ。だからこそ王子様に見初められて幸せを手に入れることができるのだ。

 女性の社会進出に関する問題は男性や男性を中心としたかつての社会に問題があるように語られる。しかし私は、女性にも問題があるように感じる。

 「女子力」はその最たるものだ。「女子力」はその名の通り、対男性を意識して相対的に女性らしい能力を指す。この言葉のやっかいな点は、容姿や趣味だけでなく言葉使いや振る舞いなどまるでプリンセスのような旧来的女性像を押し付けてくる点だ。そして昨今、この言葉が大流行し、女性は多かれ少なかれ「女子力」を追及している、あるいはすべきものという風潮がある。

 確かに、二三十年まえは女子力の高さが幸せに直結したのかもしれない。「女の幸せ=結婚」が、今以上に強かったころは、女性らしく振舞った方が得だったのかもしれない。でも今は、流れが変わってきている。建前上は、男性と対等に渡り合うことが求められている。

 「女子力」はこれに逆行する考え方ではないだろうか。どうして「女性らしさ」をとりたてて追及する必要があるのだろう。健気でいじらしいシンデレラをそこまで理想化するのだろうか。二十世紀の遺産は、男性上司や社会の構造だけじゃない。女性の心の中に、いつまでもキラキラと輝くガラスの靴が残ったままなのだ。壁ドンも顎クイも全部受け身。現代版女大学ともいうべき「女子力」の大流行には疑問を感じる。社会を変えるためにはまず自分たちの意識を変えよう。私たちを幸せにするのは王子様だけじゃない。ガラスの靴を脱ぎ棄てて、厳しい社会でハッピーエンドをつかむこともできる。

 

フェミニズム」と冠したアンチフェミ作文である。

ひどい。

タイムリープして過去の自分を殴りに行きたい。そしてそれを中年の男性教師に「素晴らしい」とほめたたえる評がついた状態で文集として公開されたことを誇りに思っていた自分、まじ恥ずかしすぎる。

 

「昔は男女不平等だったかもしれないけど、今は男女平等なんだから、女が活躍できないのは努力が足りないから。女子力とか追いかけてないで、努力して社会的に成功しろ!」 

いや、どう考えてもアンチフェミニストの言説だろ.....。

アンチフェミニストというか、ポスト・フェミニスト的な言説かもしれない。もう男女平等は達成されたという認識に立ち、lean in(リーン・イン)して社会的に成功してキラキラしよう!というとする。ポスト・フェミニズム状況と「女子力」が結びつくことを考えればさもありなん。

ここ数日、この作文を掘り返してからというもの「ポスト・フェミニズム」と呼ばれるような状況(現在の私の認識として「フェミニズムの課題が終わった」ということはありません)を学んで、私はその波の中にいるからすごく無意識に取り込まれてしまっていたんだ....と反省しました。

 

 

ということで(?)、せっかく大学を卒業するので、アンサー作文、ってか当時の自分への手紙を書こうと思う。

 うまく書けるかわからないけれど。

 

 

 

「こんにちは、フェミニストの私。さようなら、私の内なるマギー!」

 

 こんにちは、こちらはすっかりフェミニストになった私です。

 あなたの作文はひどいものですが、高校三年生なのでギリギリ許してあげましょう。今は2020年ですが、大手メディアの記事がもっとひどいみたいなことも定期的にあるので、ギリギリ許します。

 突然ですが、どうして「女子力」を追及してはいけないのでしょうか。きっとあなたはこう答えます。「チャラチャラした女は舐められるから。」そうです、女は舐められます。でもそれって舐めてくる奴が悪くないですか?どうして女性らしい服装をしたり、ふるまいをしたり、言葉使いをしたら舐めて、二流市民扱いしてもいいんですか?誰でも平等に尊重され、扱われるべきだとしたら、なぜ男性のように、否、男性に対等と思われるような恰好をしなければならない理由はないはずです。フェミニストは、ひらひらしたプリンセスのような服を着ても、メイクが好きでもなれます。フェミニストは、ガラスの靴を履きたければ履けばいいと言います。そしてフェミニストは、プリンセスのような恰好をしていても舐めるな、舐めてかかってきたら許さねぇぞ、という話をしています。あるいは、チャラチャラしたセクシーな恰好をしていたとしても、それで馬鹿にしたり、暴力を振るう奴を糾弾します。

 「女子力」を追及する奴がいるせいで、私が料理が嫌いなこと、子供が嫌いなこと、言葉使いが汚いこと、諸々を非難されるじゃないか。あるいは学校の中で「女子力」の低い女として扱われるじゃないか、と言いたいかもしれません。まずフェミニストは、「女性らしさ」を押し付けられることに反対します。ヒールを履いてもいいし、メイクをしてもいいけど、それを「しなきゃいけない」のは違うよね、抗おうぜ!と考えます。そういう意味では、2015年のあなたの味方です。ブスのインテリだからでしょうかね....いたずら告白してきた同級生を、フェミニズムは非難しますよ。「女性らしさ」の押し付けに反対し、「女らしくないからってバカにしていいわけじゃないからな!」とぶちぎれます。

 で、確かに、「女子力」の高い同級生たちは「女性らしさ」を再生産しているかもしれません。しかし、それは本当に同級生たちのせいなのでしょうか?あなたにとって、高校生活は社会のすべてかもしれませんが、案外その外側にも世界は広がっています。「女子力」の大合唱をしたのはどこの誰ですか?テレビですか?雑誌ですか?私が子供と料理が嫌いなことに文句を言うのは誰ですか?まず自分の母親ですね。同級生も母親から何か言われているかもしれません。知らんけど。そうやって想像力を広げてください。世界中のあらゆる場所で、再生産は起きています。再生産に大きな影響力を持っているのは、マスメディアとか、政治かもしれません、もっと広いかも。それがあなたの作文にも出てくる「社会構造」です。世の中は、女の子が女の子らしく、ある種の「女子力」を追及するようにできています。同級生たち個々人ではなく、その社会構造を考え、批判するのがフェミニズムです。だから目に見える同級生たち、あるいは女性たちを「お前らが女子力なんか追及するからだ」と言うのはお門違いです。考え直してください。

 さて、ここまでの話はもういいよ....高校という狭い世界の中で生きる中で「女子力」とかスクールカースト的なものとか、服装とか、そういうことにかこつけてフェミニズムを語ったことは間違っていました、と認めるでしょう。過去の私は「でも!女も男と同じくらい努力して、男女平等ってことになった世の中で成功を勝ち取らなきゃいけないのは真実でしょ?そのためには服装とかメイクとかに構っていたら、闘いに負けてしまう、そういうことが言いたかった。もっとたくさんの女が勝たないと、女性の社会進出は進まない」と、そうお考えでしょう、2015年の私。王子様を待たず、ガラスの靴を脱ぐ、というのは「専業主婦」のイメージのように恋愛で成功をつかむのは過去のモデルであり、「厳しい世界で新しいハッピーエンドをつかむ」というのは、自由競争の厳しい社会においてビジネスなどの仕事で成功する、ということを意味しているんでしょ。

 まず一つ目。これは今の私にも通じることですが「努力が直接報われる」と考えているあなたのまっすぐさ、幸運だったということです。大好きな櫻井翔君が言いそうな精神論を言っているのではなく(「努力は報われるとは限らないけど努力しろ」という話ではありません)、自分自身が持っている特権に気づかないでいられたのはとても幸運だったということです。中学から私立に通い、大学受験に向けて当然のように学校の中の空気が変わる世界に生きているということを指摘しています。のちに東大の入学式で似たような話を上野千鶴子という人がするので、それを聞いてください。先に言っておきますが、あなたは東大には合格しませんよ。努力しても報われないこともあったね、ってかそういう話じゃないんだけど。属性に関わりなく、自由競争の中で、努力すれば勝ち抜ける、というのは社会構造を考える視点が抜けています。さっきの「女子力」高い同級生の話もそうですが、あなたは話を個人に還元しています。個人の服装や個人の努力に。個人で努力して勝ち抜ける自信があるのは結構ですが、失敗したらどうするんですか?自分の努力が足りなかったから?事故にあって、働けないからだになって貧しくても自分のせい?毎日イトーヨーカドーの前の交差点でここで轢かれて死んだら楽なのに、って思ってた時期あったけどそれで死にきれなかったらどうすんの?あなた、元々身体弱いでしょうが、そんな奴がゴリゴリ働いて勝ち抜けるとでも思った?学校じゃ頭が良くて個性的、主張の強いあなたにとって競争の中の個人主義は魅力的でしょう。偏差値が高い私は学校の先生からは評判が良かった。でもね、それでいいわけ世の中。

 次に、「厳しい世界」といった社会のこと。あるいはあなたは高校の卒業式の答辞で「グローバル化による国際競争の激化は私たちを増々貧しくする」とスピーチしますが、それでいいんでしょうか。競争は厳しい、勝つためにはもっと努力を!自由な市場で勝ち抜くぞ!!失敗したお前は努力が足りなかったから、自己責任で、国は責任を持ちません。あなたの作文、及び卒業式の答辞は、そんな社会に適合して勝ち抜くぞ!という勢いに溢れています。元気そうで何よりですが、他の人のことを考えてください。あなたは自分の成功に集中するだけの環境を偶然持っていますが、そうではない人もいること。そういう人も安心して暮らせる社会がいいと思いませんか。経済の自由競争を推し進め、競争力アップや自由な働き方を旗印にフリーランスや非正規雇用を推進し、自己責任の名の下で財政を切り詰める。めっちゃ大雑把にいうとそういうの新自由主義と言いますが、そういう新自由主義社会に迎合するんじゃなく、批判するという道もあります。自由な競争の名前で、現実にある社会構造や格差・差別を覆い隠し、競争に負けた者たちを切り捨てる、そういう在り方を批判できる。あなたはそんなに力まなくていい。男並みに努力して、そういう能力を要求する世の中に迎合して、必死に頑張って、頑張らない女を見下す。高校三年生のあなたはそういう奴だよ。彼女たちは知っているんだよ、こんな激しい競争社会で、女らしさを身に着けることも一つの生存戦略だって。ねぇ、そういう社会そのものを批判しよ。それがあなたが手に入れた「フェミニズム」という言葉が開けてくれる扉です。まだ手に入れたばかりで使い方を間違ったようですが、フェミニズムは女が女を批判するための言葉ではなく、女を抑圧する社会を批判する言葉です。

 ちょっと偉そうに過去の自分を説教してしまいました。ここまで、過去の自分のことを「あなた」とか「2015年の私」とかなんだとか呼んできましたが、あなたのことを「内なるマギー」と呼んでもいいですか。そして、大学卒業を機に、いい加減あなたとお別れしたいのです。「マギー」というのは、覚えてますか?中三の時の文化祭のクラスTシャツの背中に、クラス全員の名前を書いたとき「さっちゃー」ってあなた名乗りましたね?その人です。マーガレット・サッチャー、イギリスの首相です。歴史の教科書に「鉄の女」と書かれ掲載されていた彼女は、当時の私には魅力的に写りました。文化祭に際してクラスを率いる私は「さっちゃー」と呼ばれてもいないあだ名(当時のクラスTシャツはそうやって呼ばれていないあだ名を書いた)を記しました。そのサッチャーです。強くて、憧れでした。当時は不勉強だったのでイギリスの女首相ってことくらいしか知らなかったけど、彼女は極めて評価が別れる存在で、ここまでのこの作文の文脈に沿って言えば新自由主義者で、自己責任論をも擁護するような意味での超個人主義者。そういう人に憧れていたわけだ。saebou先生も、彼女に憧れる側面があることを認めたうえで、自分の新自由主義者的な、個人主義者的な内なる声が聞こえてくると、それに「内なるマギー」と名前を付けて追い払うことを紹介しているので*1参考にさせていただきます。

 「内なるマギー」はしょっちゅう出てきます。そのくらいきつくてももっと努力しようよ!と人に言いそうになります。私はできたんだから、と。イライラします。できない人たちを置いて、私が勝てればいいじゃない、と思いそうになります。つい最近もありました。私は強くなりました。2013年に櫻井翔くんが演じた家族ゲームというドラマの吉本荒野が「強くなれ」と言ったから、ガンガン勉強して、ガンガン社会運動します。弱音を吐かずに、頑張ります。ちょっとしんどいとそれを他人にも強要しそうになる。でもそれは、私にあの今となっては恥ずかしい作文を書かせた「勝ってやるぜ!」という野望に満ち溢れた私です。野望があるのはいいけど、ちょっと待って、あなたこの歳になってまたあの作文を書くの?という話です。サフラジェットは超いい映画でした。メリル・ストリープの顔を、そっちにしてしまいましょう。エマ・ワトソンでもいいし。どうも、グリフィンドールの私です。

 恥ずかしい作文を晒したから、今日で内なるマギーとはおさらばです。大学4年間で学び、活動し、私はフェミニストになりました。シスターフッドを知りました。さようなら、私の内なるマギー!こんにちは、フェミニストの私。これからもよろしく。

 

 

【参考文献】

北村紗枝

さよなら、マギー~「内なる抑圧」の誘惑には、名前を付けて抵抗しよう - wezzy|ウェジー

河野真太郎「機嫌の悪い女たち、機嫌の悪い男たちポストフェミニズムにおける感情の取り締まり」現代思想2020年3月号フェミニズムの現在

菊池夏野「憧れと絶望に世界を引き裂くポストフェミニズム―「リーン・イン」・女性活躍・『さよなら、ミニスカート』-」早稲田文学2019年冬号

 

春だし就職/昇任するあなたに贈る『部長、その恋愛はセクハラです!』

 

私が買ったやつには「上野千鶴子氏推薦!」とデカデカと書かれている。

その推薦文には「一家に一冊、いや、男性一人に一冊、本書は『家庭の医学』並みの必需品。あのひとが昇進したら、贈ってあげよう。」と書かれている。

上野千鶴子氏という権威が言うからなんでもいいって話にはならないのですが、この帯は確かに!私もそう思う!って感じでした。

 

で、すごい勢いで読んだんですが(自宅から東京駅、東京駅から新大阪まで新幹線の片道の間に読み終わりました。新書なので読みやすいです。3時間あれば確実に読み終わるはず)まじでこれは、とくに男性が昇進したときに贈るといいプレゼントになるのでは...?おせっかいっぽいけど訴訟になるよりいいでしょう。というか被害者が減るし。

 

あとは、自分の活動に引き付けていうと、こんなわかりやすく「ハラスメントとはなんたるか」を理解できる本があったのか!もっと早く出会いたかった!と思ったので、ハラスメントや性に基づく暴力について勉強したい人の入門としてめっちゃオススメします!!

 

 

と、いうことで牟田和恵氏『部長、その恋愛はセクハラです!』

 

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)

 

 

 

あの、セクハラに関してよく言われるやつで「女が嫌だったらなんでもセクハラなのかーー!」みたいなのありますよね。(割とイメージで言ってる)

私は嵐ファンなので、翔くんが主演した「特上カバチ!」という法律系のドラマで、行政書士を主人公にしたドラマでセクハラを題材にした回があったんですよ。その時に女性側に立つ堀北真希が「セクハラは本人が嫌だと言ったらセクハラです!」みたいなことを言って、被害女性のことを考えず示談に持ち込もうという翔くんを批判するくだりがあったことを結構強烈に覚えてる。

 

それに関しては「嫌だと思ってなくても、嫌がっていなくてもセクハラです!」という解答が正解なんじゃないか...と。

 

第四章が「女性はなぜはっきりとノーと言わないのか、男性はなぜ女性のノーに気づかないのか」というタイトルで「本章のレッスン 男性が気づけない理由その4 女性は嫌でもニッコリするもの」というまとめが目次に乗っていてそれドンピシャなんすよ!

 

雇用関係や師弟関係で権力関係がある中では、その後の悪影響を考慮してニッコリしてうまいこと収めようとするものだったり...性的なメッセージを受け取りたくなかったり。

そもそも女性には、ジェンダー規範が染みついているからはっきりと「ノー」という習慣がなかったり、逆に男性は多少ぐいぐい行くことが奨励されていたり...とはっきりと「ノー」が出ないメカニズムがわかりやすく紹介。

 

 

 

「性的同意」というのがここ二年くらいの私の取り組んでいる課題ですが、「同意」を全面に出して活動することに問題を感じることもあって...。いや、もちろん「性的同意」という言葉自体は対等性や非強制性といった形でその時の文脈や権力関係に目を配り、対等な関係性でなければ同意は発生しない、ということをワークショップとかでは強調しているけど、「性的同意」という言葉そのものからは背景にある権力関係の考慮は見えてこない。

むしろ強調されるべきは、権力関係をめぐるあれこれなのでは....というような気がしてきた。いやはや「性的同意」そのものの重要性は変わらないのだけど、展開の仕方としてね...。運動の展開の仕方、強調の仕方は常に悩ましいところです。

単に「同意の有無」という話だと勘違いされてしまうと、「ノーって言わなかった女が!」とも取られかねない訳で。常に女性(バイナリーな典型的な男→女への加害を選定とした言い方ですが)が性行為に同意しているということをデフォにするのではなく、むしろ逆でOkな時だけOK。そして行動を起こす側に常に同意をとる責任があり、沈黙が何かを意味するのではなく積極的な同意が同意である。

まずは環境として同意できる環境なのか、職場の場合はここでもう既に権力関係があるからアウト!ですよね。あとは強制力がなんらかの形で働いていないか。

そして次に積極的同意の話と、非継続性(キスに同意したことは性行為に同意したことにならない)を重ねていく。

 

話が同意の方にながれちゃったけど、要は権力関係がキーワードということ!

よく言われるのは権力ってなんやねん!という話で、雇用関係とか師弟関係とかはわかりやすいですが、他にも専門権力と言った形で一方が専門的知識を有しているとか、、権力はどういうときに発生しているのかというところも載ってて、わかりやすい~~っていう。

 

 

あと、本に戻ると、そういう、不均衡な権力関係の中では、同意は不可能であるという文脈における「ノー」と言えないという権力性はもちろん、年上の男性は専門的な知識や職業的なスキルで「かっこよく」見えるものだ、というのもなるほど~~~!すぎて、笑

 

 

他にも「ほとんどのセクハラはグレーゾーン」というのも、ごもっとも。

 早い段階で謝罪しておけばいいのに、「やってない!」の一点張りで訴訟にまで持ち込まれ....という話。

 

あとは「女性はあなたのために露出の多い恰好をしているわけではない」とか。

 

1ページも無駄なくセクシュアル・ハラスメントがなんたるか、そして鈍感がビルトインされている上に世の中で権力を持つ立場になることが多い男性が陥りやすいハラスメントを加速させるポイントを押さえた良書です。

 

 

この本で「ハラスメントとはなんたるか」を把握しておくと実際に被害者になったときにも「私の思い違いかもしれない..」とかでじっと耐える期間を短縮できるのでは?と個人的には思いました。

同時に、権力を持てばハラスメント加害者になりうるわけなので、女性もハラスメント加害者にならないとは限らない。もちろん権力の性質は多少変わりうるけど。

その意味で、誰もが読んでおくといい本!新書で読みやすいし!

 

春から就職/昇任する人は読むといいと思うよ~ってこないだのゼミ合宿で就職する男子の同期に二回も勧めてしまった....笑

暇なら読もう~~

 

 

 

クソリプ対応に持ってこい『ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた』

 

クソリプ対応に持ってこいです!!!!(大声)

 

 

それがこちら。

ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた』です!!(どん!)

 

 

 

Kindle版もあるやんけ~~!

 

 

 

あの~~もうね、ほんとにうんざりしてるんですよ。

女性専用車両って男性差別じゃないの??」

「クオーター制は逆差別では?」

フェミニストって男嫌いなんでしょ?」

「男も生きづらいからみんな一緒だね」

「レディースデーって男差別だよね?」

「痴漢っていうけど冤罪もこわいじゃん?」

「女の方が専業主婦になれてイージー

「私は専業主婦になりたいからフェミニストから嫌われる」

フェミニストなら化粧しない」

 

特に、女性専用車両・痴漢冤罪・レディースデーの3点セット!!

なに???それしかないわけ???逆に???

他になんか言えよ!!

ってキレるレベルで同じネタばっか飛ばしてくるあの現象.....!!!(机をバンバン叩く)

 

 

もう何回その話をさせる訳?と私は思っている。が、毎回毎回違う人が聞いてくるので聞いてくる方は「初めて」目の前の「フェミニストと自認する女」に聞いているのである。Twitterならいざ知らず、ガチでそういうことを聞いてくる人は決してそれが「クソリプ」に近いだなんて思ってないし、なんなら「フェミニズムについて知りたいんです!」という顔をしているのでせっかくのチャンス!と私もせっせと答えるのであるが、いかんせん数が多いのでまじでだるい。あと実際に答えようと思うとうまくできなかったりして、すると逆に「ハイ!論破」の顔をされるから厄介だ。

個人的にこたえる時には、「差異か平等か」みたいなどっちを選んでも詰む質問を先に繰り出されないように相手の出方を伺いつつ、正確な情報を、イライラしないように(トーンポリシング対策)相手に伝えようとしてしまう。答えてあげる義理はないのだが、「話を聞いてもらえる!わかってもらえるかもしれない!」という奴隷根性が顔を出し、言葉を重ねてしまう。

そんなことを考えながら学部生で、しかも専攻でもないフェミニズムについて、ルールなき丁々発止のやり取りの中で答えるのは実はスキルと経験が必要だ。そうとも知らずにチャレンジして失敗しては「ハイ!フェミニスト論破!」の顔をされてこっちはどっと疲れる。

そういう経験をしたことある人は結構多いと思う。

年上男性だったりするとマンスプレイニングも加わって「フェミニズムとはね、結局~」と「いや...それ方向性違ってることは私でもわかるで」というお説教をかましてくる。さらに疲れる。

 

 

そんなあなたに、こちら!(軽快な効果音~♪)

ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた』です!!!

 

 

そういうだるい人に出会ったら「まずはこれを読め!」と渡す。

渡さなくてもこのURLを送り付けるだけで十分かもしれない。

この本にはその手の「あるある疑問」には片っ端から答えてくれているので、本当に「フェミニズムについて知りたい」なら絵がたくさん入ったソフトカバーの本くらいかる~~く読めるはずなのだ。特に大学生なら大学図書館で借りればいい。(私も実際借りた)そうでない人は読まないので、そこで会話終了、振り分け完了。

 

これだけで、私が説明する必要もないし、あわあわしながら説明をして失敗することもない。向こうも大学生が執筆しているけど、研究者のチェックも入り、参考文献付きのこの本を読んだ方がよりよく理解できるだろう。

なんならフルページ読む必要もない。一つの疑問について割かれているページ数は数ページなので、「だって痴漢冤罪が」のところだけ読みたい人は読めばいい。

 

 

ということで我々(誰?)はこの本を手に入れた。

日常で遭遇するクソリプ的な質問はこの本で大体打ち返せる。

 

もちろん、友人との会話や、「本をお勧めするって...」という人はこの本をざっと読んでなんとなく暗記しておくと回答のひな型ができてクソリプ対応の効率化が進むことは間違いないだろう。

 

自力で訓練を積み「はぁ?差別は歴史的で構造的なもんだから『逆差別』はないんだよ!!?差別は一方通行なんじゃああああ!!」と即座に返せる人や「それ、司法の問題ですよね?どうして論点をずらしたんですか?」と打ち返したい人はそうするのがいい。あくまでこの本は初期対応だ。

目の前のハラスメント、差別的言動、諸々の被害を食い止めるためにはコンマ1秒単位の対応が求められるわけで、それに失敗すると差別は容認されハラスメントは拡大する。そういう時にスパっと打ち返せるようになるためには、場数を踏みまくりボロボロになりながらも対応しつづける経験値が必要だと個人的には思っている。そのためにも「これ読んでください...」で全部をかわせるわけではないが、まずはこの本で受け身を取り、次の相手の出方を見る....というのも毎日の「クソリプ」対応の一つのやり方だと思う。クソリプTwitterだけじゃなくて日常に溢れているからね。

 

 

ということで、この本については「研究と身近な体験をつなぐ良書が..」みたいなコメントをちらほら見ましたので、それに加えて、大学生フェミニスト的にはまじでっかい武器をゲットだ~~やった~~って感じでした!

一橋佐藤文香ゼミの人ありがとう~~~~~!!

 

 

時代を感じる『新しい女性の創造』

 

アメリカにおける第二波フェミニズムの火付け役になったとして有名なベティ・フリーダンの『新しい女性の創造』原題:The feminine mystiqueを読みました!

 

 

新しい女性の創造

新しい女性の創造

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2004/04/01
  • メディア: 単行本
 

 

The feminine mystiqueって直訳すると「女性らしさの神話」とかなのにどうして「新しい女性の創造」って訳なんだろう....?とずっと思ってたんですが、読んでみると、古い女性がむしろ第一波フェミニスト、戦争中に職場に出ていった女性たちを指し、新しい女性が戦後に専業主婦は女性の美徳として作り出された、そうした作り出された女性らしさを暴いたという点で「女性らしさの神話」はすなわち「新しい女性の創造」なんだと納得。

 

時代を感じたのは、「専業主婦つらいっす....この辛さはなんなんだ??」というのがこの本を貫くテーマなんだけど、今の時代だと全然ピンとこないというか...。アメリカのある歴史的な一時期の消費を支える存在として「専業主婦」が作られ、その「理想」の中で生きていた女性たちにドンピシャ大ヒット!と言う感じが伝わってきて「おう...時代やんな......」となりました。

 

時代、という点でいうと「『女』つらい!」みたいな話で注釈もなしに中産階級の白人シス女性のみを想定した主語で話すことって今ならアウト―!って感じじゃないですか。そこの注釈なく進んでいく感じにむしろ「これがフェミニズムが歩んできた歴史か...」と、こういう歴史があったからこそ私たちは「女性」の中にある差異に敏感にならねばならないと学んできた歴史があったのだと。

 

 

増補版の方を読んだので、最後の章が実際にNOWの活動を始めてみてどうだったか?みたいなくだりが出てくるんですが、その中で「私は男嫌いではないんです」みたいな話をしていて、あっ...そういうのあるよね~~って、そこはなりました。

 

 

本とは逸れるんですが、最近Netflixにややハマりまして、そこで「フェミニストからのメッセージ」(邦題)を見たんだけど、それがまさにアメリカの第二波フェミニズムを担った人々のインタビューから構成されているドキュメンタリーでこれもまた時代の空気を感じるのにいい映画でした。

予告編↓

https://youtu.be/kP94WOMVoRo

 

ベティ・フリーダンは出てこなかったけど、ケイト・ミレットは出てきていていろいろしゃべっていて「うわ~~有名人だ~~こんな方だったんだ~~」といろいろ読んだ人はなるし、アメリカの第二波フェミニズムの空気感を感じるだけでも!!ぜひ!

 

フェミニズム・アートで有名な『Dinner Party』も出てきて(ジュディ・シカゴが主要なインタビュイーとなっている)、いぇーい!と思っていたら当時の政治家から「わいせつ」だと糾弾されている映像も出てきたり....勉強になるぅ~~

 

つーかヴァギナも私の身体だっつーの!

何がわいせつなんじゃああああ!

 

Dinner Partyはこれ。

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ヴァギナをかたどっている

www.brooklynmuseum.org

 

 

 

ということで、『新しい女性の創造』と『フェミニストからのメッセージ』で、アメリカの第二波フェミニズムという時代を感じた週末でした.....!

 

 

 

 

 

その話そんな昔からやってんの?『自分ひとりの部屋』

 

フェミニズムの古典に数えられるヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』を読みました。

文庫だし、翻訳が読みやすいので、「古典....」とビビらずにサクッと読めるのでかなりオススメです。一回読めば「ヴァージニア・ウルフ読みました!」って顔できるし。

 

 

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

 

 

この本は1929年に書かれたもので、大体90年前に書かれた本。

にも拘わらず、「ああ~~~わかるぅ(わかる)」が多くて、さいごの結びの言葉にもグッと来るのですが、逆に言えば90年経ったのに未だこの古典が力を持つというところに「フェミニズム」という女性が構造的に抑圧されているという問題が解決していないことを見出すならば、一世紀経っても変わらないことに絶望せずにはいられない。

 

 

もはや笑ってしまったのがここ。

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女性について書かれた書物が多いだけでなく、その著者が「女性でないということ以外何の資格もない男性」が女性について論じていることにドン引きするという場面が出てくる。(平凡社のやつでp.49)

 

あれっ、これ最近見たな...と。

ちょうどその時は「私たちのフェミニズム」と題した記事が、第一回に聞いた人のチョイスあるいはその内容が炎上している最中で、当該記事も特に何か資格を持っている人ではなく「ふつうの人」が(それが記事の意図だったわけですが)女性の問題である(?)「フェミニズム」について語る、という構図であり、その中でインタビュイーの方は自身の母親を参照しながら「女性」とはどのような存在か、例えば専業主婦が楽である~みたいなことを例示しながら話を進めていて、「女性でないということがい何の資格もない男性」が「女性」について論じるという構図がある。

 

 

何が新企画じゃ、何が新しいんじゃボケェ

約100年前から辟易しとるんじゃこちとらァ!!!

 

と文庫を握りしめながら叫びたくなりました。

いやはやその記事の問題点はそこだけではないにしろ。というか『自分ひとりの部屋』ではそこはあんまり大きな論点ではないのですが、読んでた時はあまりにタイムリーすぎてキレ散らかしてしまった、まじで。

 

 

 

 

ということで約100年という時を意識しながら読み進めた。

私は大学に通っていて、堂々と道の真ん中を歩いて学校に入るし、図書館に入れなかったのは学生証を忘れたときくらいで「ご婦人は...」と言われることもない。

いまこのブログを私一人の部屋から書いている。実家なので邪魔が入ることもある。500ポンドを手にしていないけど、まぁ当時に比べたら500ポンド並みの収入を得る女性は増えただろう、がしかし、年収500万を手に入れながら自由な創作活動ができる女性は一体今の社会にどれだけいるだろう?

本当の意味での、思索を巡らせる「自分ひとりの部屋」を手に入れた女性はどれだけいるだろう?

私は大学受験の時に「女の子はひとり暮らしさせられない」という条件を課せられて第一志望の大学を受験すらできなかった。

世の中。密室育児で子供と二人の時間が長く「自分ひとりの部屋」を望むべくもない人もたくさんいるだろう。

私の実家。父の部屋は存在するが、母の部屋はない。昔から母が怒ると「ママには部屋がないのにどうして子供たちは自分の子供部屋を散らかすの!?」というスタイルで怒ってきた。機嫌がいいと「ママがパパにたくさんお願いしてこだわって作った自慢のキッチン」「ママの身長に合わせて高さを調整した食器棚」の話を聞かせてくれた。

だから小さいころ、声には出さなかったが不思議だった。「どうしてママはパパと同じようにお部屋を持ってないの?キッチンはみんなのものでしょ?」と。

 

 

ママにはキッチンがあり、部屋はない。

ママには部屋はいらない設定なのだろう。

 

 

なお、父の部屋は書斎と呼ばれている。父の書斎の一角には母の本を置くスペースがあったが、最近では父の本が増えて母の本は別の場所に移動させられてしまった。

母の本はほとんどすべてが料理の本だった。月刊の料理の本。お気に入りの数冊が、キッチンの入り口に移動したのだった。

 

 

 

私の母は、自分ひとりの部屋を持たない。

 

私は、自分ひとりの部屋を持てるだろうか。500万を稼ぎ、自分ひとりの部屋を持ち、創作を、思索をできるようになりたい。

それは2020年を生きる若い女性である私にとっても、割と、切実な願いである。

 

 

 

 

『自分ひとりの部屋』の中では、シェイクスピアに彼と同じだけ才能のある妹がいたら、、、、彼女は高名になることなどなく、死んでしまうだろうという例え話が出てくる。

結びの言葉においてウルフは

「一語も書かずに十字路に埋葬されたこの詩人は、いまなお生きています。みなさんの内部に、私の内部に、食器を洗い子供を寝かしつけるためにこの場にいない、他の数多くの女性の内部に、生きています。とにかく彼女は生きています。というのも、優れた詩人というのは死なないのです。いつまでも現前し続け、チャンスを得て生身の人間となり、私たちとともに歩むときを待っています。

私が思うに、みなさんの力で彼女にこのチャンスを与えることが現在可能になりつつあります。」

 

これに続けて、ここまでの記述に対応するように「あと一世紀ほど生きて~なら」と条件節を続けます。

自分ひとりの部屋を持ったら...。年収500ポンドを持ったら...。

きっと彼女は甦る。

 

「彼女のために私たちが仕事をすれば、彼女はきっと来るでしょう。」

 

 

 

さて、約一世紀が経とうとしていますが、相変わらずシェイクスピアの妹の比喩は力を失っていない。私は自分ひとりの部屋を、500ポンドを、得られるのか?

でも最初に書いたように私は図書館にアクセスできるという点では当時の彼女とは違う。そういう変化も、この90年の間、無数の女性たちが積み重ねた仕事により、シェイクスピアの妹が何度も蘇らせた、蘇らせようと努力したことが生み出したものだろう。

ならば私も、書き、学び続けるしかない。私はきっと必ず「書く」だろう、と誓う。そういう仕事をするだろう、と。

 

 

 

 

 

 

ヴァージニア・ウルフさん、90年後の世界はこんな世界です。

どうですか?

 

 

100年後の誰かさん。

聞こえますか?はてなブログのサービスが終了しているか、笑

『自分ひとりの部屋』を持っていますか?500ポンドを稼いでいますか。

古典というものは力を持つものなので、きっと100年後も『自分ひとりの部屋』は読まれていることでしょう。

このブログはきっと読まれていないでしょう。

ただただ私は、100年後のあなた方が「なんだか古臭い本でした」と同じ本を読んで、どこかに(100年後はどんなものが流行っているでしょうか)読書メモを書き残すことを願っています。

そのために今の私は、シェイクスピアの妹を蘇らせるための努力を惜しまないこととしますね。

 

 

 

 

つーか私がやるか100年後(おっと...?)

 

\\ その話、やっと終わったよ ///